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弁護士日記

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非農地判断に関する農水省課長通知の内容に疑義あり

2021年04月29日

 前回、令和3年4月1日付け農水省農地政策課長の通知に法的な疑義があることを指摘した。
 今回は、それ以前に出された同じく農地政策課長通知にも疑問があることを指摘したい。その通知は、平成30年3月12日付けの農地政策課長通知「農地に該当しない土地の農地台帳からの除外について」という通知である(以下「平成30年課長通知」という。)。対象は、〇〇県担当部長となっている。
 前回も紹介したが、農水省は、平成21年12月11日に「農地法の運用について」という通知を出している。対象は、各都道府県等となっているようである。この通知(以下「運用通知」という。)は、地方自治法245条の4第1項に基づいて出された事務処理上の技術的助言としての性格を有するが、その実体は単なる行政規則にすぎず(法規命令ではないという意味)、地方公共団体に対する法的拘束力はない(通説)。
 したがって、地方公共団体としては、運用通知に反する事務的取扱いを行ったとしても、地方の事情に照らし相当な理由があると判断されれば、運用通知と異なる取扱いも許容されると解される。
 運用通知第4の(3)は、農業委員会が対象土地について農地に該当するか否かの判断をする際の手続を定める。また、農業委員会が非農地判断をした土地については、「農地台帳の整理等を行うこと」と書いている。さらに、同(4)は、対象土地が非農地に該当するか否かの判断基準を示している。それ以外に、運用通知第6・1(1)は、農地法52条の2に基づく農地台帳の作成について触れ、「地目及び面積は、登記簿に記載されている内容を記録するとともに、これと異なる現況にあることを把握している場合には、当該現況も併せて記録することが適当である」と言う。非農地判断については、それ以上の言及はない。
 ところが、平成30年課長通知は、同じく、地方自治法245条の4第1項を根拠とする技術的助言として出されているが、「2 都道府県等による独自の運用等について」という項目には、次のような記述がある。「都道府県や市町村等において、非農地判断に関して独自の要領を定めて運用を行っている場合等においては、運用通知及び本通知と矛盾が生じないよう留意すること」と。
 しかし、地方の特性あるいは事情に応じて、非農地判断の基準または手続に多少の違いがあっても当然のことであって、何も国が一律の基準を定める必要はない。各地方自治体の取扱いと平成30年課長通知との間に矛盾があっても、何ら違法とはならないのである。仮に国で統一的な基準を定めたいと考えるのであれば、法的拘束力のある法律、政令または省令で明記する必要がある。通知ではダメである。
 農地法63条1項各号に掲げられている事務は、いずれも自治事務である(地方自治法2条8項参照)。その中には、法52条の2に規定された農地台帳の作成事務もある。農地台帳の作成事務は、農地法58条1項かっこ書によって、農水大臣が出す指示の対象外とされている。農地法も地方自治体の自主性の尊重に配慮したわけである。さらに、地方自治法2条13項は、自治事務については「国は、地方公共団体が地域の特性に応じて当該事務を処理することができるよう特に配慮しなければならない」と定める。
 ところが、平成30年課長通知は、そのような地方自治法の文言を無視し、しかも、法的拘束力のない上記通知をタテに、「矛盾が生じないよう留意すること」と高圧的姿勢を示した。国が言えば、地方公共団体は何でも聞くと勘違いしている、としか思えない。今後、農水省は、行政法を専門とする学者を招き、省内で行政法の基本知識を学ぶための研修を実施してはどうかと考える。
 

日時:17:22|この記事のページ

農水省課長通知に法令違反の疑義あり

2021年04月28日

 このたび、農水省の農地政策課長は、令和3年4月1日付けで「非農地判断の徹底について」という通知を出した。宛名は、各都道府県の農地担当部長となっている。以前から農地関係法令の改正動向を常にウオッチしている私は、さっそくその内容を見た。
 しかし、上記課長通知の内容を読んで、私は、この通知は農地法に違反した違法なものである可能性があると判断した。このようなことはあってはならない。そこで、本ホームページを通じて、全国の自治体担当者に対し注意を喚起する次第である。
 この課長通知は、「1 非農地判断の手続の迅速化」、「2 非農地判断した農地の地目変更登記について」、「3 非農地化した土地の農用地区域からの除外」、「4 現地確認が困難な農地について」、「5 フォローアップ」という構成である。
 このうちで、一番問題なのは、「5 フォローアップ」である。次のように書かれている。
 まず、第一に、農業委員会は、再生利用が困難な農地について、毎月末時点の非農地判断の実施状況を別添報告様式により、翌月の10日までに都道府県知事に提出する。都道府県知事はそれらの報告を取りまとめて、翌週末までに地方農政局に提出するものとする、としている点である。
 一体、農水省の一課長にそのような手間を要する作業を地方自治体に押し付ける権限があるのであろうか?正解は「全くない」ということである。確かに、農地法30条1項は、農業委員会に対し、省令で定めるところにより、毎年1回、その区域内にある農地の利用状況についての調査を行わなければならないと規定する(これを「利用状況調査」という。)。よって、農業委員会は、毎年1回は利用状況調査を行う義務があるといえる。これを受けて、国の通知「農地法の運用について」も、その第3・1(1)で「利用状況調査については、毎年8月頃に実施すること」と規定する。
 ただし、この国の通知は、いわゆる「法令」ではないため、地方公共団体を法的に拘束する効力はなく、8月に実施するのか、あるいは別の月に実施するのかは、各地方公共団体において適切に決めれば済むことである。
 ところが、上記課長通知は、平成21年12月11日に、農水省の経営局長と農村振興局長が連名で出した上記「農地法の運用について」という通知をも無視して、非農地判断の実施状況を毎月、都道府県に報告せよと求めている。
 確かに、当該課長通知は、利用状況調査を毎月行うことは求めてはおらず、単に、非農地判断の実施状況を毎月行うことを求めているだけであって、特に問題ないという弁解が出るかもしれないが、そのような詭弁は通用しない。
 なぜなら、毎月月末時点における非農地判断を的確に行うためには、事実上、毎月、現場で利用状況調査に近い作業を行わざるを得ないからである。まさか、課長通知は、利用状況調査は毎年8月に実施された調査の一回きりでよい、また、その後の非農地判断は、何もわざわざ現場に赴くことなく、農業委員会の机の上にある8月時点の資料で十分に行い得ると釈明するつもりなのであろうか?しかし、そんなはずはない。このように、今回の課長通知は、農地法の解釈を超えた違法な通知(違法通知)と言うほかない。農水省の課長の姿は、「百姓は生かさず、殺さず使え」と言った江戸時代の幕府の代官のように映る。
 いずれにしても、市町村の農業委員会は、毎月、非農地判断を行うか否かを含めそれを行う法令上の義務はなく、仮に納得できない場合は、それを拒否すれば足りる。拒否することは適法であって、違法の問題を生じない。国に対し「当農業委員会は、都道府県に対し、毎月報告するつもりはございません」と連絡すれば、国としては、それ以上何も言えないのである。
 次に、第二に、課長通知は、仮に農業委員会が、農水省の農地政策課長が要求する非農地判断を実施しようとしない場合、地方農政局長が、その農業委員会に対し、必要な助言を行うとしている。仮に助言を受けても、農業委員会が非農地判断をしようとしないとき、つまり地方農政局長の助言を無視した場合、「法第58条に基づき速やかに非農地判断を行うよう指示するものとする」と脅しをかけている。
 なお、農業委員会の行う「非農地判断」は、事実行為にすぎず、また、法30条が規定する「利用状況調査」とは全く別物という見解もあり得る。ただし、両者は密接に関連しており、その意味では、一体的に捉えるべき一個の事実行為であると解釈することも十分に可能である。
 このように、果たして地方農政局長に市町村の農業委員会に対する助言および指示を行う法的な権限が与えられているのかという点は、はなはだ疑問というほかない。
 まず、農地法58条1項の農水大臣の指示権であるが、農地法62条によって地方農政局長に大臣権限を委任することができる。
 次に、どのような機関の事務処理に関し指示を出すことができるのかの点が問題となるが、農地法58条1項を普通に読む限り、指示を出せる相手方は、市町村農業委員会である。また、同条1項のかっこ書において、農地法63条14号の事務が、指示可能な事務から除外されている。法63条14号の事務には、同法30条の規定により市町村が処理することができる事務のほか、多くの事務が明記されている。そして、同法30条の事務とは、農業委員会の行う利用状況調査の事務である。
 これらの条文を総合的に解釈すると、市町村の農業委員会が行う法30条の利用状況調査事務は、法58条1項の指示が可能な事務から外れ、結局、地方農政局長は、市町村の農業委員会に対し、指示を出すことはできないということになる。
 ところが、推測するに、農水省の課長は、法63条14号でいう法30条の事務については条文上「市町村が処理することとされている事務」と明記されているから、除外されるのは市町村が法30条の事務を行う場合であり、農業委員会が行う当該事務については、除外されていない、つまり指示の対象に含まれているという解釈をとっているようである。
 あるいは、利用状況調査にかかる事務と、非農地判断にかかる事務とは別個のものであり、通知対象から除外されるのは前者にすぎず、後者は依然として指示の対象となるとの珍解釈をとっている可能性もある。後者の事務を実施することを怠っている農業委員会に対し、法58条1項のいう「この法律の目的を達成するため特に必要があると認めるとき」に該当するという解釈をとって、指示は可能と理解しているふしもある。
 しかし、そのような解釈には無理がある(少なくとも、大方の了解を得られない、極めて技巧的な解釈である。)。
 なぜなら、第一に、法30条の利用状況調査事務を行う主体として、そもそも農地法が想定しているのは農業委員会であるという点をあげることができるからである(他の行政機関を想定することは困難であろう。)。
 また、第二に、法63条14号でいう「市町村」とは、対象とされる農業委員会を設置している市町村を指すものと解釈できるからである(市町村は、行政上の権利義務が帰属する行政主体であり、一方、農業委員会は、市町村の行政機関ないし行政庁という位置付けになる。)。農業委員会は、行政主体である市町村のために、農地法で認められた権限を行使するわけである。例えば、A市農業委員会が権限を行使することによって、その効果はA市自身に帰属するということである。
 今回の農水省農地政策課長の通知は、法律による行政の原則に照らし、違法通知の疑いが濃厚である。今回の事態から、農水省の職員の法的レベルが相当に劣化していることが推測できた。農水省は、誤りを素直に認めた上で当該通知を早々に撤回すべきである。
 

日時:17:21|この記事のページ

韓国とは関わるな

2021年04月28日

 「韓国とは関わるな」が私の持論である。関わっても何も良いことがなく、反対に、後日、大きな災難が日本にやってくるからである。韓国および中国の両国は、国際法を守らないという無責任な姿勢が共通している。国際とは、大きく分けて、多国間の条約の場合(例 外交関係に関するウイーン条約)もあるし、二国間の合意(例 日韓条約)の場合もある。韓国と中国は、外交関係の基盤となる条約を守らない点で、全く信用できない国である。信用できない国とは、我々個人間の付き合いの場合と同様、交流してはならないのである。それが無用のトラブルを避ける知恵である。
 関わってはいけない理由については、これまで何回も述べてきた。したがって、今回は同じことを繰り返すことはしない。しかし、最近になって、またクレームの常習犯である韓国および強権独裁国家である中国の反日プロパガンダが新たに始まった。韓国および中国という二大反日国家による不当な日本攻撃は永久に止まないと予想する。
 第1に、福島の原発から出た処理水の問題である。これらの反日国家は、福島第1原発の処理水を海洋に放出する旨の日本政府の決定を不当に攻撃している。しかし、処理水に含まれるトリチウムは、WHOが定める安全基準よりも厳格に希釈して放流するのであり、それによって健康被害が生ずるとは考え難い。現に、韓国も中国も原発から出た処理水を海洋に放流している。しかも、それに含まれる年間のトリチウムの量は、将来、福島第1原発から出されるはずの年間のトリチウムの量を大きく上回っている。
 そのような事実を知りつつ、韓国・中国の二大反日国は、福島第1原発の処理水の放出について、根拠なき非難をわが国に加えているのである。ここで、なぜ韓国・中国は、そのような根拠のない非難をあえてわが国に加えようとするのか?という疑問が湧く。
 その理由は、簡単である。根拠があろうとなかろうと、他国である日本に対し非難を加えれば、その非難をうっかりと信じてしまう国も出てくる。そうすると、他の第三国からみた日本の印象は悪くなり、ひいてはわが国の外交に支障をきたすことにもなる。つまり、日本が不利益を被るように韓国・中国は仕向けているのである。実に悪意に満ちた国という以外にない。
風評被害という言葉があるが、風評被害を日本の福島県民に与えているのは、韓国と中国であるということを、しっかり認識する必要がある。福島県の内堀知事もそのことをよくわきまえ、韓国・中国に対し、「風評被害を拡大させるような言動を慎め」と抗議するくらいの正しい姿勢を見せて欲しいものである。
 また、韓国・中国という二大反日国家にとっては、ありがたい味方が日本国内にいる。具体的な名前はあげないが、自称「リベラル」(本性は反日左翼)の野党勢力、新聞・テレビなどのマスメディア、学者、文化人、評論家などである。これらの者たちが韓国・中国の応援団となって、日本叩きに加勢してくれるという仕掛けがある。
 ここで、また疑問が湧く。なぜ日本国内に、韓国・中国の応援団がいるのか?応援団は、そのような反日活動をすることでなにかメリットがあるのか?という疑問である。答えは簡単ではないが、これらの反日勢力は、昔から日本に根付いてきた良き伝統・文化・国民性・国柄というものを根底から破壊し、全く違う「おかしな国」に作り替えることが正しいと信じ切っているためではないかと分析できる。要するに、韓国・中国にとって都合の良い、主体性もなく「平和憲法」「平和憲法」をお題目のようにひたすら唱え、韓国・中国の言いなりになる弱小国にしようという計画があると考える。
 もちろん、このような動きは、完全に間違ったものであり、仮に実現すれば日本国民に大きな不幸をもたらすものであるが、彼らにとっては、そのような正論は通用しないのである。
 第2に、本年4月21日に韓国で慰安婦訴訟に関するソウル地裁の判決があり、国家は他国の裁判権に服さないという国際法上の大原則である主権免除を認めた。原告慰安婦らの訴えを棄却した。
 これについては、当たり前のことであり、反日国家である韓国の裁判官の中にも、「普通のレベルの裁判官」がいることが分かった(もっとも、この裁判官も、判決文の中で日本軍による強制連行がなかったとは一言も述べておらず、逆にいえば、強制連行があったという虚偽の事実を前提とした判決をしていると推測できる。)。
 しかし、そもそも日本国政府が慰安婦という職業についた女性に対し法的な責任を負うことがあると考えること自体が間違いである。自称「従軍慰安婦」は、当時の状況下において、自らの意思でそのような職業を選択したにすぎず、何ら日本政府には法的責任はない。慰安婦の募集について、当時、朝鮮半島にいた日本軍が主体となって動いたという証拠ないし事実は確認されていない。まして強制連行など一切なかった。従軍慰安婦という呼び方は不合理なものであり、単に「慰安婦」と呼ぶべきである(しかし、日本国内の「リベラル」を称する新聞社は、未だに従軍慰安婦という用語を使っており、依然として韓国に配慮を示していることがうかがえる。)。
 ここで、疑問が湧く。では、どうして韓国ではそのような「言いがかり訴訟」が起きてしまうのか?その原因は、河野談話である。かつて河野官房長官は、あたかも日本政府が慰安婦について責任があるかのごとく理解できる談話を間違って出してしまった事実がある。
 おそらく日本政府としては、ここで謝っておけば事態は沈静化するだろうという読みがあったのであろう(日本には「水に流す」という紛争解決法がある)。しかし、韓国人にはそのようなやり方は禁物である。へたに温情を示すと、それに付け込んで、とんでもない無体な要求を持ち出してくる。日本政府の考え方が甘かったのである。河野談話が出たため、諸外国も、過去に日本は悪いことをしたと誤解して、今に至っている(菅総理は、「河野談話」を撤回するべきである。)。
 日本国政府(日本国民)は、これらのことを十分に学習し、今後は二度と、韓国に付け込まれないようにワキを固めて物事に対処する必要がある。もっとも良いのは、かつて戦後の長い時期に韓国と日本の交流が全くなかった時代と同様の状況に戻すことである。わが国としては、韓国が主張する妄想に基づく日本攻撃に対しては、厳しく反撃を行い、また国際社会にも発信する必要があるが、その余のことは、一切関わらないという姿勢をとるのが、一番の方策である。
 

日時:13:13|この記事のページ

新型コロナワクチンの国内開発・製造を急げ

2021年04月26日

 私は、産経新聞を数年以上前から定期購読している。地元岐阜(および東海地方)の記事が全く見当たらないことが欠点であるが、記事の内容は、おおむね日本の国益を第一に考えた上での記事となっており、参考になる。地元のニュースは岐阜新聞で補っているが、記事のレベルは産経新聞と比べかなり劣る(ただし、この点は私見である。)。特に、立憲民主党の機関紙に載っている主張をそのままコピーしたのか?と疑われる社説の内容は、全く話にならない(近隣の横暴な独裁国家の影響を直接・間接に受けているのではないかと感じられるため、読んでも時間の無駄となる。)。
 さて、本日(2021年4月26日)の産経新聞の6面に、塩野義製薬社長の手代木功氏が寄稿した「コロナの次に備え司令塔を」という記事が載っており読んだ。なるほどと思った。
 手代木氏の主張の骨子とは、「今回、新型コロナがもたらした危機は、国家レベルの危機であり、かつ、安全保障の問題である。感染症の司令塔を防衛省内に設置し、防衛という考えの中で対処したらどうか。少なくとも、内閣の下に、医学、医療の危機が起きたときの指揮命令系統を作るべきである。感染症は、いつ流行するか分からないのであるから、平時から戦時に備えなければならない。アメリカには緊急使用許可という制度があり、今回、迅速な対応をとってワクチンの承認に至った。ところが日本では、今回のようなコロナの危機が起きても、医療や産業界、また承認をする国において平時の意識が強く、緊急時という理由で即応しようとする意識が薄い。仮に国内の製薬会社がワクチンを製造した場合、患者のデータをかかりつけ医と共有することが可能となり、また実際のデータの蓄積も可能となる。現状、年内のワクチン供給開始を目指しているが、大規模な臨床試験の実施が困難となっているため、有効性と安全性を確認する新しい手法について国と協議を進めている」というものである。
 手代木氏のこの考え方には全面的に賛成したい。
 とにかく、今後も人類に脅威を与える感染症は、必ず出てくると見てよい。そのような事態に備え、日本は、「安全保障」の問題として、日本(日本国民)を防衛するための効果的な制度を整備する必要がある。例えば、国内の有力製薬会社と防衛省(防衛医大)および国内の有力大学が連携して、仮に新たな感染症が生じた場合に備え、常に、基礎的な研究を恒常的に行い、万が一に備えるという程度の制度設計は必要であろう。
 ただ、手代木氏もいうように、司令塔が必要である。その場合、司令塔は民間企業のトップではとうてい務まらず、大臣クラスの有能な政治家がなるべきである。現在は、大臣が3人いて(田村、西村、河野の各大臣)、事務を分担しているのあるが、迅速性に欠ける。
  現在の大臣(特に、西村大臣)は、常に二言目には「専門家のご判断を参考にしつつ」というが、予防線を張るというか、何か逃げ口上のような印象がある。決断するのは、あくまで国政に責任を負う政治家であって、専門家ではない。政治家が最終的に判断し、責任を負うのである。その意味で、司令塔となる大臣は、一人でなければならない(大臣が複数では責任の押し付け合いになり、結局、無責任という事態に陥る。)。
 司令塔の大臣が間違った判断をした場合は、いさぎよく辞職すれば良いのである(しかし、現実には政治家という仕事を「家業」として子孫に代々伝えようとする小物政治家が多すぎるため、辞職=政治家を辞めることを恐れて、安全運転に徹している。したがって、抜本的な改革が進まない。)
 ここで、同日付けの産経新聞社説「主張」に目が移った。ここには「反省なき組織に未来はない」とある。日本学術会議が、かつて菅総理が任命の見送りを行った6人の学者について、総会として即時任命を要求する声明を出したということを批判する社説である。この批判には、私も同感である。
 日本学術会議の会員の任命権は、総理大臣にあると法律で明記している以上、菅総理が、任命するか拒否するかの裁量権を持つことは明らかである。また、日本学術会議の会員は、特別職の国家公務員である以上、内閣によって一定のコントロールに置かれる法的仕組みが必要であり、その方法が、任命権(任命拒否権)なのである。仮に日本学術会議の構成員である会員が、特別職の国家公務員でなければ、総会で、自由に会員を選任すればよいのである。その代わり、会員の人件費や事務局の運営費について、当然に国費を投入せよと要求する権利は認められない。
 また、日本学術会議は、総理大臣がどうしても任命しないというなら、任命拒否の理由を明らかにせよと要求しているようであるが、最初から無理を承知でそのような世迷言をいっているとしか思えない。本当に心底頑迷な組織である(「学者〇〇」という言葉があるが、まさに至言である。)
 例えば、ある大学で、教授になりたい准教授がいたが、教授会で、どうしても教授に推薦できないと決議された場合、その准教授から、「その理由を明らかにせよ」といわれても、まさか「あなたは能力が欠けているので、教授にすることはできません」などと告げるはできまい。他方、その准教授が大学から解雇されたような場合、つまり不利益処分を受けた場合は、裁判で、解雇理由を明らかにせよと要求することは認められる。
 何がいいたいのかというと、私見によれば、日本学術会議の会員に任命するか否かは、総理大臣の合理的裁量に委ねられており、また、任命拒否は「不利益処分」には当たらないということである。換言すると、国に対し、任命を法的に要求する権利は、推薦を受けた会員候補者にはないということである。たとえ、任命を拒否されたとしても、それまでの学者としての待遇はそのまま維持され、それまでどおり自由に学問研究に励むことが保障されているのである。一体、任命を拒否されると、どのような不利益が具体的に発生するといいたいのか?
 折から、多くの国民がコロナで苦しんでいるこの非常時において、軍事科学研究を極端なまでに忌避する日本学術会議として、ここ1年の間に何か積極的にコロナ禍克服に資する提言を行ったことはあったであろうか?テレビのニュースや新聞記事を読んでも、日本学術会議が、少しでもその存在意義を発揮したことがあるという印象は皆無である。実は何もしていなかったということである。まさに「盲腸」のような存在であると考えざるを得ない。このような無用の長物化した組織は、早く解体し、自助の精神を持った純粋な民営組織として再出発させるのが一番ではないか(後は、内部で好き勝手にやればよい。)。

日時:18:55|この記事のページ

無駄な病院、診療所等が多すぎる日本

2021年04月24日

 本日土曜日は、家で雑用をこなしながら、たまたまCBCラジオの若狭敬一の番組「スポ音」を聞いていた。通称「おしゃべり眼鏡」こと若狭アナのプロ野球中継はしばしば聞いている。軽妙な話しぶりには、特に注文を付けることはない。本日、若狭アナは、今回の緊急事態発令に関連して、いろいろな統計数値をあげて、なぜ医療が切迫するのかということを解説していた。私の意見と非常に近かった。若狭アナは、あれでもといっては失礼になるが、名大経済学部を卒業している。
 さて、我が国では、今月25日から来月5月11日まで、東京、大阪、兵庫、京都の4都府県に、特別措置法に基づく緊急事態宣言が発令される。テレビなどで、毎日、武漢ウイルス(新型コロナウイルス)の新規感染者の数が発表される。最近では全国計でおおよそ数千人のレベルとなっている。
 しかし、ここで疑問が沸く。欧米やインド、ブラジル、ロシアなどと比べ、一定の人口当たりの感染者の人数が非常に少ない我が国で、なぜ、緊急事態宣言を何回も発令しなければならないのか?という疑問である。
 原因を探ると、コロナの入院患者を受け入れてくれる病院が少ないため、重症の患者であっても入院できないということがしばしばあげられている。それを一般には、医療崩壊と呼ぶらしい。
 しかし、人口一人当たりのベッド数は、先進国の中では、日本はトップクラスにある。つまり、患者が入院するためのベッド自体は、日本全国に余りあるほど十分にあるということである。
 ところが、コロナの治療を十分に行える病院や診療所は極端に少ない。ここで、ベッド自体は十分にあるのであるから、そこで受け入れてもらえばよいではないか、おかしいではないか、という疑問がさらに沸く。
 原因は二つある。一つは、日本の病院は、民間病院の割合が欧米と比べて非常に多い。仮に国・公立の病院であれば、行政(国・県・市町村)の方から、「コロナ患者を受け入れてもらえないか」と何回も言われれば、むげに断ることもできない。他方、民間の病院は、建前上営利を目的としている存在ではないが、実体は「金勘定」が優先する。したがって、民間病院は、経済的な理由で、行政からの要請を拒否することが可能となる。
 二つ目の理由として、日本では、人口一人当たりの医師の数が、欧米諸国と比較してかなり少ない。日本だけ医師の数が長期間にわたって増えてこなかった原因は、日本医師会が、大学医学部の定員を増加させないように国に働きかけてきた結果である(開業医の競争激化、収益低下を懸念してのことと聞く。)。医師の絶対数が少ないため、コロナの治療に充てる余剰人員がほとんどいない。
 しかし、上記のとおり、人口一人当たりのベッド数は非常に多い、つまりベッドは日本の津々浦々に配置されているため、地域の住民が入院することが比較的容易であるが、上記のとおり、民間の病院や診療所の数が多い。そのため、医師のマンパワーが分散されてしまい、一病院当たりの医師の数は少なくならざるを得ない。
 コロナの一件が起きる前から、既に一人の医師が、同時に多くの患者を診なければならないという労働加重の状態にあった。そこに、新たにコロナの患者が加算されるのであるから、すぐに「医療逼迫」という状態に陥るのである。
 以前、欧米の諸国では、普通の人は滅多に病院や診療所に行かないという話を聞いたことがある。仮にカゼくらいで受診を申し込んだら、断られると聞く。それに比べ、日本では、病気といえば病気といえないこともない程度の元気な「病人」が、こぞって病院や診療所に行き、注射をしてもらったり、薬を出してもらったりしている。
 そのため、国や自治体の予算が無駄に使われてしまっている。例えば、腰が痛いという程度であれば、重大な病気がある場合は別として、市販の膏薬を貼って、家で静養していれば済むのである。それをわざわざ病院や診療所に通って、無駄な医療を受けて自己満足している。このような場合であっても、患者の自己負担を別とすれば、保険者の方で、医療機関に対し診療報酬を支払っているのであるから、国全体としてみれば、膨大な予算が使われることになる。
 そのような「無駄な金」が国にあるのであれば、赤ん坊、子供、学生、女性などの支援にもっと多額の予算を振り向けてもらいたいものである。
 このようなおかしなことが延々と続いてきた原因は、中小零細の民間病院等が多すぎるということに尽きる。民間病院や診療所の多くは、世襲の医師が、昔から病院や診療所を建てて、そこで医療行為を行ってきた。医師と患者が「持ちつ持たれつ」の関係にあった。この仕組みには、戦後、特段の変化は起きていないと感じる。
 このような無駄を無くすには、民間の病院の数を現在の半減または三分の一程度にまで減らし、その代わりに地域における基幹病院に多くの医師や看護師を集約し、組織化された高度の医療を提供する態勢を整える必要がある。ちょうど、昔は、多くの都市銀行があったのに、今では、少数の都市銀行に集約されているのが参考となる。地方銀行も、同じように、複数の銀行で一つの新しい銀行を作る動きが活発となっている。今後、病院も統廃合を進めるべきである。
 現在、古い体質の病院が多く存在しているのは、現行法において、病院を倒産させないための手厚い保護(補助)があるからである。したがって、今後は、法律を改正し、そのような無駄な保護を無くし、結果、統廃合を促す政策をとるべきである。
 少数精鋭の基幹病院に多くの医師や看護師を多数配置する仕組みを実現できれば、人員のやりくりにも余裕が生まれ、今回のコロナのような緊急事態に容易に対応できるのではなかろうか。日本は、先進国の中で、「労働生産性が非常に低い」といわれる。これを医療に当てはめると、医療の生産性が低いということになるのではなかろうか。換言すると、一定程度の治療効果を出すために、日本では、必要以上のお金を掛けているということである。仮に医療の現状に詳しいジャーナリストがいれば、是非、そのような問題を扱った本を出して欲しいものである。
 ここで、旧態依然の世襲病院経営者から、「それでは地域の医療が不十分となる」という反対意見が出るかもしれない。しかし、地域医療の提供は、特に最初から病院でなくても、ベッドを持たないクリニックが初期対応を行えば十分であると考える。

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新宿会計士著「韓国がなくても日本経済はまったく心配ない」を読んで

2021年04月20日

 今回、ペンネーム新宿会計士が著した「韓国がなくても日本経済はまったく心配ない」(WAC)を読んだ。今回の著者は、新宿会計士としか分からず、どこの誰が書いた本かは不明である。しかし、本名ではなくペンネームで書かれた本であることは間違いないであろう。ただし、筆者は「会計士」と自称しているだけであり、例えば、公認会計士や税理士の有資格者であるか否かは不明である。
 書店の棚を見ると、韓国を批判した内容の本は非常に多くあり、個々の本の内容はもっともであると感じる。しかし、客観的なデータを基にして、韓国を批判した本は余り多くはない。そこで、今回、この本を読んだわけである。内容を一読した感想としては、極めて冷静な記述がされているという印象を受けた。
 本の第1章「韓国の日本に対する数多の不法行為」という章には、これまで韓国が我が国に対して行ってきた「不法行為」(ただし法律家の立場からすれば、「不法行為」というと、つい民法709条の法的概念を連想させるため、むしろ、「不当な行為」または「悪意に基づく攻撃」と言い換えた方が分かりやすい。)。
 具体的には、2011年12月の在韓日本大使館の前に慰安婦像を設置し、日本国を侮辱した一件、2012年8月に韓国大統領李明博による島根県竹島への不法上陸、同じく李明博による天皇陛下侮辱発言、2015年の日本による産業革命関連施設の世界遺産登録に対する韓国の妨害行為、2016年12月の釜山総領事館前に慰安婦像を設置し、日本国を侮辱した一件、2017年の日韓慰安婦合意を我が国の政府の了解なしに公開した一件、2018年10月の韓国最高裁による自称元徴用工判決、同年12月の韓国駆逐艦による我が国の自衛隊機に対するレーダー照射事件、2019年2月の韓国国会議長による天皇陛下に対する侮辱発言、同年7月の慰安婦財団の一方的解散、同年後半における日韓GSOMIA破棄騒動、同年後半における我が国の輸出管理適正化措置(韓国をホワイト国から外したこと)に対するWTOへの提訴の動き等である(33頁)。2021年の4月も原発の処理水を海に流すという計画を日本政府が公表したことに対し、韓国は抗議声明を出し、たまたま来韓した米国のケリー特使に対し同調するよう告げ口外交を行ったが、ケリー氏に一蹴されてしまった事実がある(この韓国に同調しているのは、共産党がすべてを仕切る「独裁国家」である中国だけである。この二つの国は、反日連合国と呼ぶことができよう。)。
 このような数々の歴史的事実に照らすと、根拠のない感情に任せた不当な攻撃を日本に加え、日韓関係を積極的に破壊しようとしているのは、もっぱら韓国であることが分かる。本当にどうしようもない低レベルの国であると思わざるを得ない。
 一方、我が国は ここ10年余りを振り返っただけでも、韓国に対し紛争を生じさせるような不当な行為を一切行っていないのに対し、韓国は、これだけの問題を平気で起こしているのである。
 ところが、日韓関係についてテレビなどを見ると、左翼的思想を基盤とする新聞社の記者(論説委員)や外交の専門家と称する者たちは、したり顔で「日韓関係は重要である」と間違った意見を繰り返し述べている。しかし、このような意見は間違いである。この本の筆者も「認識自体が間違っている可能性が非常に高い」と見抜く(43頁)。
 そして、「外務省や親韓派の政治家の頭からスッポリ抜けてしまっているのが、この『国益』という論点であり、(中略)外務省に対韓外交を仕切らせると、韓国に無用な譲歩を行い、それが長期的には日本の国益を損ねてしまう、という事例が多すぎる気がします。慰安婦問題などその典型例でしょう」と付け加える(47頁)。全くそのとおりである。私も常々「外務省は、本当に頼りにならない、情けない役所である」と思っている。中国・韓国に対する日本のこれまでの外交方針がいかにお粗末なものだったかということである。韓国は、基本理念(民主主義、自由主義、人権の尊重、条約の遵守、法の支配などの基本理念)を共有する友好国などではなく、「永遠の反日主義」を国是とする敵対国であることをしっかりと認識すべきである。
 次に、会計士である筆者は、日韓関係について、「ヒト、モノ、カネ」という三要素から考察し、いずれの点も、日本の韓国に対する依存度は低く、逆に、韓国の日本に対する依存度は高いと分析する(76頁)。つまり、日韓関係が破綻することによって、双方とも被害を被るが、被害の程度は韓国の方が死活的に大きいということである。
 ここで一つの疑問が起こる。では、なぜ韓国は、日本との関係を悪化させるような行動を積極的にとるのか?という疑問である。同時に、日本は、交流してもほとんど利益のない国際交流を韓国との間で行うのか、という疑問である。
 この本にも書かれていることであるが、韓国(韓国人)は、明治時代に日本の保護国とされてしまったことが絶対に許せず、謝罪と反省を日本に対し求め続けることにしているのではないかということである(128頁)。
 しかし、このような考え方こそ間違っているのである。明治時代に韓国が日本の保護国とされてしまったことは、当時の世界情勢ないし常識からすれば、あってもおかしくない状況であった。世界は、いわば「食うか食われるか」という帝国主義の時代だったのである。韓国が日本の保護国となったのは、要するに国力がなかったことが原因であり、善悪の問題ではない。また、日本が韓国を保護国化したことによって韓国内のインフラが整備され、その後の発展の基礎となった。さらに、戦後、日韓条約が締結されて、日本は韓国に多額の賠償金を払って、賠償問題は解決済みとなった。
 そのような歴史的事実があるにもかかわらず、韓国は、上記のとおり日本に対し不当な攻撃を加え、両国の関係を破壊しようとしているのである。日本としては、この教訓を生かし、今後、韓国の得となるような行動は一切行わないという国の方針を確立する必要がある(187頁)。いっこうに素行を改めようとしない韓国には、地味ではあるが、一定の効果が期待できる制裁を加える必要があるのである。
 日本がそのような「韓国放置策」ないし「韓国無視策」をとることによって、韓国がアジアの経済成長から取り残される状況が生まれた時点で、ようやく韓国も「日本の存在の有難さを忘れていた。これまで日本から受けてきた恩恵に対し仇で返すようなばかりしていた」と反省し、常識にかなった行動をとるようになるのではなかろうか(もっとも、韓国が簡単にそのような自覚に至るとは思えないが)。
 それまでは、気候変動問題のような地球規模で一致して取り組む必要がある重要な問題を除き、韓国とは「約束しない(条約を締結しない)」、「TPPなどの国際貿易のネットワーク機構に仲間として入れない」、「交流しない(人的な往来を縮小する)」、「協力しない(経済、金融、技術、軍事的な協力をしない)」、「助けない(金融危機が起きて韓国が非常事態に陥っても金融支援をしない)」ことが一番である。
(追記)
 韓国のソウルでは、日本が原発の処理水を海に放流することを決定したことに対し、反日団体が大使館の前に集まって抗議し、丸刈りのパフォーマンスを行ったというニュースを本日(4月21日)見た。原発の処理水を海に放流するという方法は、現に韓国の原発も行っている方法であり、特段の問題はないはずである。にもかかわらず、このような異様な抗議を日本大使館の前で行うのは、普通の韓国人の考え方が、日本人が想定する範囲を超えて、極めて異常なものとなっているためであろう。日本に対し、何でもかんでもいいがかりを付け、世界における日本の評価を落とそうとすること自体が運動の目的となっているということである。日本は、今後、もはや付ける薬のない韓国という国は、上記のとおり突き放し、冷徹な態度で接するほかない。

 

日時:15:23|この記事のページ

加害者に優しすぎる日本の刑事裁判

2021年04月12日

 2021年も4月を迎え、気候も次第に良くなってきた。
 寒い冬ともお別れの季節となった。
 ところで、私が昔から疑問に思っていることがある。日本の刑事裁判は、加害者に優しすぎるのではないか?という疑問である。加害者と一口に言っても、刑事事件の加害者の場合と、民事事件の加害者の場合がある(民事の加害者の場合は、民法709条の不法行為による金銭賠償責任が課せられることになる)。
 刑事事件の加害者とは、分かりやすく言えば、犯罪人ということである(公訴提起前は被疑者または容疑者と言われ、公訴提起後は被告人と呼ばれる)。私は、テレビは、まともなニュース報道を除き、ほとんど見ない。「時間の無駄」という以外にない余りにもくだらない番組が多すぎるためである。
 ニュースを見たり、聞いたりしていると、重大な罪を犯した犯罪人が逮捕されたというような報道が、連日のように行われる。また、犯人が逮捕され、警察や検察における取り調べを経て起訴され、刑事裁判において判決が言い渡されたという話題もしばしば目にする。
 ここで、よく感じる疑問であるが、「なぜ、日本の刑事裁判においては、こんなに刑が軽いのか?」ということである。例えば、お年寄りを騙して、お年寄りが大切に貯めたお金を奪いとる犯罪がある。詐欺犯である。しかし、犯人(被告)に前科がないような場合は、被告が反省しているという理由で、執行猶予が付いてしまい、結局、その犯罪者は、刑務所に入らずに済むことが多い。あるいは、他人とトラブルになって、かっとして他人を殴り、傷害を負わせたような場合でも、初犯者の場合は、やはり執行猶予が付いてしまう。
 もちろん、執行猶予にしても構わない犯罪もあろう。例えば、コロナで失業し、手元にお金がなくなり、結果、空腹に耐えかねて、店頭に置いてあったパンを盗んで食べるというような場合である。このような犯罪の場合、情状酌量の余地があり、また、被害額も少ないという事情から、犯人を刑務所に送るまでの必要性はないというべきである。
 しかし、全体的には、「なぜ、こんな悪質な奴を放免するのか?」という印象しか残っていない。また実刑判決が言い渡される事件においても、「この裁判官は、一体何を考えているのか?」と疑問に思うような軽い刑を言い渡して、お茶を濁している事件が非常に多い。これには枚挙の暇がない。
 記憶に残っているものでは、例えば、未成年者である他人を誘拐して、自宅に何年も監禁したような悪人に対し、信じ難いほど軽い刑を言い渡した裁判官もいた。仮に自分や自分の親族が被害者になった場合のことを考えれば、反省もしていない悪党に対し、このような不当に軽い判決など出せるはずがないのである。結局、裁判官には、「所詮、他人事」という悪い意味で冷静な意識が働いているではないのか?
 裁判所には「相場表」という刑の言渡し基準が昔からあると聞く。そろそろ、刑罰を重くして、犯罪の発生を抑制する方向に転換する時期が来ているのではなかろうか。私の感覚では、現在の相場表に対し、1.5倍を乗じると、ちょうど良い刑になる。例えば、現在、懲役10年の言渡しがされている事件であれば、懲役15年の刑の言渡しとするのである。
 犯罪人の人権の保障も、憲法の認める範囲において保障する必要があるが、より大切なのは、何らの落ち度のない「被害者」の人権である。その意味で、凶悪な重大事件を起こした犯人に対しては、徹底した捜査を行い、刑事裁判においては、躊躇なく死刑判決を言い渡し、もって、正義を実現する必要があると確信する(なお、無期懲役刑は、➀受刑者の日々の生活費を死ぬまで国庫が負担する結果となること、また、➁受刑者は拘束期間の長さに比例して反省悔悟を積み重ねるという客観的データがないことから余り意味があるとは言えず、結論として相当性を欠くと考える)。
(追記)
 たまたま2021年4月17日付けの岐阜新聞を見ていたら、「女児2人暴行男に懲役11年」という記事が載っていた。記事を読むと、事件を起こした被告は、多治見市内に住む無職の男(23歳)であり、起訴罪名は、強制性交等の罪(刑法177条。5年以上の有期懲役)および営利目的等略取誘拐罪(刑法225条。1年以上10年以下の懲役)と推測された。
 被害者はいずれも13歳未満の女子であり、被告は、ナイフを示して女児を脅して犯行に及び、また犯行状況を動画撮影するなど犯情も非常に悪い。このような悪質な男に対し、岐阜地裁の出口博章裁判長は、懲役11年という軽い刑を科した。これには、「この裁判官たちは、子供の人権を何と考えているのだ」と憤慨した。つくづくダメな裁判官たちだと思った。裁判官にとっては、結局のところ、他人事ということなのか?このような悪質きわまる犯罪者には、懲役20年の懲役刑の言渡しでも軽すぎると感じた。
 このようなおかしな状況が生まれる根本原因は、日本の刑法で、有期刑の場合、1月以上20年以下という制限があることにある(刑法12条1項)。つまり、有期刑の場合は最長でも20年で済むということである。アメリカの一部の州では、複数の重罪を犯した者には、50年程度の有期刑が科されることもあると聞く。日本でも、せめて有期懲役刑の上限を30年に引き上げ、また、子供を狙った悪質な犯罪を抑止すべく、刑法を改正し、罰を重くすべきである。
 なお、アメリカの刑務所では、このような子供を狙った犯罪を犯した囚人に対し、他の囚人たちがリンチを加えることがあるという話を聞いたことがある。リンチは違法であるが、他の囚人たちの気持ちは理解できる。
 

日時:21:13|この記事のページ

日本は、2022年北京五輪に参加してはいけない

2021年04月07日

 かねてより、世界の人権団体などから、2022年の中国冬季オリンピックをボイコットするべきであるという意見が出ていた。本日のNHKの報道によれば、アメリカの国務省の担当官が「北京五輪の共同ボイコットを、同盟国や友好国と協議したい」旨の発言をした。
 私は、これには大賛成である。日本は、北京五輪のような醜悪な五輪には参加してはいけない。理由は簡単である。仮に中国共産党が国威発揚の目的をもって準備している北京五輪に日本が参加した場合、日本は、中国が長年継続してきた傍若無人な力による現状変更と中国ウイグル自治区において現在進行中のジェノサイド(民族抹殺)を認めることになってしまうからである。
 中国共産党当局による他民族(ウイグル族)への弾圧は、ヒトラーが率いたナチスドイツのユダヤ人に対する弾圧と同様の酷いものであり、絶対に是認できない。
 ところで、現在のオリンピックは商業主義の極致にあり、「平和の祭典」という理念は、あくまで建前にすぎない。とはいっても、やはり、オリンピックは、世界の平和、人類の平等・協調などを願うものであることは否定できないであろう。
 ところが、中国という国は、中国共産党が世界の国家の頂上にあることを他国にも認めさせる、つまり強要する国である。具体的には、思想・信条・学問の自由や各種人権の保障は、あくまで中国共産党が許容する範囲内のものにすぎず、西欧民主主義的な自由な考え方は一切存在しない。したがって、中国共産党が、「この考え方は危険であり、国家としては認められない」と判断すれば、弾圧され、刑罰が科され、結果、収容施設に投獄されてしまい、人の自由は簡単に奪われてしまうのである。
 このような異常な考え方がまかり通る強権国家(共産主義・全体主義国家)が開催するオリンピックに、能天気に外国が参加することは、換言すれば、そのような中国の間違った思想に共鳴したものと受け取られることになるのである。つまり、中国の理解者であるという烙印を押されてしまうのである(嫌悪すべき中国共産党と同類であるとされてしまう危険がある。)。
 現在、武漢ウイルス(いわゆる「新型コロナウイルス」)の蔓延問題について、日本では有効な解決策が打てていない。一つの大きな原因は、日本がワクチンの国内開発を怠ってきたことである。国家の安全保障の観点から、生物兵器に対処するため日本製ワクチンの開発をしっかりと行ってこなかったことが、現在の混乱を生んでいる。
 仮に国産ワクチンが存在し、早い時期から全国民に対し接種する態勢が整っておれば、日本は、コロナの悪影響から離脱し、いち早く経済を回復軌道に乗せることが可能であった。今回は、ワクチンが問題となっているが、これを「国防」という言葉に置き換えることもできる。万が一の緊急事態に機能すべき国防の主要部分を他国(アメリカ)に任せているような国は、いずれ衰亡する以外にない。
 なぜワクチンが研究開発できなかったのか?理由はいろいろあろうが、一つは、少しでも軍事に関係する研究は行ってはダメだと国内の大学研究者に圧力をかけてきた日本学術会議のような「反日団体」の存在が大きいと考える。本来であれば、より合理的な考え方に立って、外国が開発し、実戦に投入する危険のある生物・化学兵器から、日本国および国民を防衛するための有効な方法を研究開発しておくべきであった。政府も潤沢な予算措置を行っておくべきであった。しかし、政府も政党もマスメディアも何も意見を述べず、手を打ってこなかった。
 話がやや逸れたので戻す。我々日本人は、人権の保障・自由の尊重および法の支配を原理原則とする西欧民主主義国家の一員であることを再確認する必要がある。そのような重要な原理原則を全面的に否定し、力による他国への侵略を党是とする中国という異質な国とは、共存共栄できないことを明確に自覚するべきである。将来は、どちらかの側が勝利し、他方が倒れるまたは滅亡する運命にあることを肝に銘ずる必要がある。
 左翼マスメディアがしばしば唱える「冷静な話し合いによって問題を解決すべきである」という主張は、多くの場合は不作為を推奨するものであり、できないことをあたかもできると唱える空理空論の域を出ない。左翼マスメディアが「冷静に」という言葉を使った場合は、中国側の利益に配慮して問題を先送りすべきであるという意味と同じであり、要注意である(中国は、2021年の時点ではアメリカと正面から戦っても、勝利できる可能性は低いと分析しているはずであり、今の時点で戦争を起こし、結果、中国に決定的に不利な情況を出現させたくないと考えているはずである。要するに、自国の優勢が確立するまでは、事を荒立てずに時間を稼ぎたいと思っているはずである。)。
 日本は、2021年北京五輪には参加してはならない。

日時:13:53|この記事のページ

野党国会議員ほど気楽な稼業はない

2021年04月03日

 中国発の武漢ウイルス(中国共産党のウイルス研究所が密かに製造した軍事用のウイルスを指す。世間では、いわゆる「新型コロナウイルス」と呼ばれている。なお、私は中国共産党の言うことは頭から信じていない。ほとんどが虚偽の宣伝であると考えている。)は、なかなか収束の兆しを見せない。専門家の意見を聞くと、「既に第4波に入っているといってよい」との見方が大勢を占めている。私もそのように感じる。
 新型コロナウイルスの脅威を世界の人々が感じ始めたのは、ちょうど1年前の2020年2月頃のことであった。その後、新型コロナウイルスは世界中に拡散し、各国の経済に大打撃を与えた。感染者の数は、アメリカ、ブラジル、欧州、ロシア、英国などで爆発的に増加し、結果、外出制限(ロックダウン)などの法的措置もとられた。
 しかし、日本では感染者の数は、他国と比較して10分の1以下の数に抑えられている。その原因については、現時点では不明である。人種によるものなのか、あるいは昔からあった日本独自の予防接種の効果なのか、よく分からない。また、重症者の数も日本と同じくらいの人口を有する他国と比べると非常に少ない。
 ところが、立憲民主党を始めとする左翼政党(マスメディアでは、これを「リベラル」と呼んでいるようである。)には、政府の政策や自治体の知事の方針を批判する声が強い。つい先日も、立憲民主党の枝野代表が、大阪の吉村知事の行った緊急事態宣言の解除について、責任を追及する旨の批判的コメントを出していた。
 これを聞いて私は、枝野氏の無責任さを改めて実感した。かつて東日本大震災が起きて原子力発電所に重大な損傷が認められた時点で、当時の民主党の菅(かん)内閣で官房長官を務めていた枝野氏は、何回も「直ちに危険な状態ではない」と繰り返し発言していたが、実際はどうだったのか?
 当時の枝野官房長官は、その発言について責任を取った事実があったのか?現実には全く責任を取っていなかったのである。責任をとったことがない枝野氏は、吉村知事に対し批判めいたことを言える立場にない。無責任発言もほどほどにしてもらいたい。
 思うに、この立憲民主党という「政権や自治体に対しクレームを付けることしか能のない」政党の存在意義が果たしてあるのか?以前からはなはだ疑問に感じている。クレームを付けることは誰でもできる。難しいのは、別の政策を提言することである。しかし、別の政策を提言することは、あらかじめ調査・研究を要するため、事は簡単ではない。
 これに反し、「〇〇はけしからん」と批判することは、要するに、他人の揚げ足を取るだけで済むから、知恵のない者(無知な者)でもできる。大阪の吉村知事が、なぜ緊急事態宣言の解除を国に申し出たのかといえば、経済状況の悪化を食い止めるためであり、実に正当な根拠を持つ提言であった。
 しかし、立憲民主党という政党は、とにかく政府を批判することだけを自己目的化していると受け取られても仕方がない政党であるため、今回のような吉村知事批判に繋がったのであろう。
 仮に枝野代表が大阪府の知事を務めていたと想定した場合、「枝野知事」は、国に対し、緊急事態宣言の発令をいつまでも継続するよう要請していたであろうか?吉村知事の解除要請があった時点では、感染者の数は目に見えて減少していたのであるから、解除要請をすることに違和感はなかったのである。仮に「枝野知事」であったとしても、国に対し、解除要請をしていた可能性が高いと推測できる。
 一事が万事という言葉もあるが、立憲民主党の国会議員ほど気楽な稼業はないのではなかろうか。国会において、政府のやることにクレームをつけていさえすれば、高額の国会議員歳費を受け取ることができる。また、いろいろな名目で、年間5000万円に達しようとする高額の給料を満額受け取ることができるのであるから、まさに「野党議員天国」と呼んでも差し支えない。日本中にコロナが蔓延していようといまいと、自分の経済生活には全く悪影響がないのである。こんなうまみのある職業はない(だから、何としても連続当選して議席を守りたいわけである。)。
 思うに、国家のために役に立っていない国会議員ほど罪深い存在はない。ここで、左翼野党議員の連中から、「我々が頑張っているから、まともな法案が成立するのだ」という反論が聞こえてきそうだが、全く説得力がない。
 はっきり言うが、左翼野党議員の反対意見を採用したことで、より良い法案が成立した事例はほとんどない。一例として、数か月前のことであるが、法定の感染症に罹患した患者の身柄を確保するための措置として、当初、政府は、刑事罰(罰金刑)を導入しようとしていた。
 ところが、立憲民主党の枝野代表や今井議員は、「已むに已まれぬ事情を抱えた人まで捕まえて牢屋に入れ、前科者とすることは行き過ぎである」という趣旨のとんでもない暴論(煽動的質問)を国会の質問において行った。
 そのため、刑罰である罰金刑の導入が見送られ、行政罰である過料を科することで決着した事実がある。しかし、已むに已まれぬ事情を抱えた人が、検察官によって起訴される可能性は非常に低いし(不起訴処分)、また、仮に起訴されて有罪判決を受けることになっても、ほぼ100パーセントの確率で執行猶予付きの判決となるため、執行猶予期間を無事経過すれば前科は付かないことになるのである。
 このように過料という弱い措置でお茶を濁すことになったことは、将来に禍根を残すものと言ってよい。仮に刑事罰であれば、捜査機関において、逃げ回る悪質な患者を逮捕して、効率的に身柄を確保することもできたであろう。
 立憲民主党という政党は、昔存在した民主党と同じ思想傾向を持つ政党であるが、事あるごとに「私権に対する制限は慎重にしなければならない」という、一見すると良いことを言っていると国民に対し誤解を与える言動を行う政党である。
 しかし、例えば、殺人という犯罪行為を犯した者は、捜査機関によって逮捕され、移動の自由を奪われることになるが、そのような私権制限が行われることは当たり前のことである。犯人(被疑者)を逮捕して留置場に拘束することは許されないなどと主張することこそ許されないのである。むしろ必要な私権制限は、積極的に行うべきである。
 いずれにせよ、国家予算を無駄使いしているとしか映らないヒマを持て余している国会議員の定数を半減させ、少数精鋭で行くべきである。議員定数が半減すれば、それだけ個々の国会議員の負担が重くなるが、同時に存在価値も上がり、現在のような「気楽な稼業」を謳歌する野党議員も少なくなるはずである。
 大相撲に例えて分かりやすく言えば、現在の国会は、毎場所負け越しを継続する、あるいは休場を平気で何年も続ける無能「横綱」が10人ほどいる状況に近い。したがって、事態を正常化させるためには、国会議員の人数を今の半分以下にするのが一番である。AI技術が進んだ現代社会にあっては、多くの凡庸な人間(=国会議員)を削減し、意欲と能力のある少数精鋭主義で行くべきである。

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