

社説とは、通常、その新聞を発行する報道機関の意見を掲載したものと捉えられている。
事件報道のための記事ではないから、事実関係を正確に押さえた上で掲載することは必ずしも要求されていないと言えよう。したがって、一般に社説は、その新聞を発行する主体の思想ないし考え方を踏まえて掲載することも許容される。しかし、思想ないし考え方を生み出す基盤となる事実関係は、正確に押さえる必要があり、勝手に枉げることはできない。例えば、ある政治家Aに汚職の疑惑が生じたという社説を掲載しようとした場合、疑惑を生む事実関係が存在しないにもかかわらず(冤罪の場合)、社説において「A代議士には汚職の疑惑があるが・・・」と書くことは許されない。いやしくも新聞は、興味本位に何でも書く週刊誌とは根本的に違うのであるから、それなりの品位ないし自己規律が求められる(だからこそ、一定の信頼性が認められている。)。
さて、2026年2月17日の岐阜新聞は、社説において、高市総理大臣がNHKの日曜討論の番組を欠席したことを非難している(少なくとも私個人はそう感じた)。同紙面は2段目で「公示後の唯一の党首討論も手の治療を理由にキャンセル」と記載し、続けて「自身の信任選挙と位置付けたならば、堂々と国会論戦や討論を受けるべきだが、史上最短日程の設定とあわせ、逃げ腰に映ったのは否めない」と記載する。続けて、同4段目で「野党側は真意をただそうとしたが、党首討論の欠席で機会が失われた」と結んでいる。
この文脈から、同社説が紙面を読む読者に印象付けたいこととは、高市総理大臣が日曜討論の番組から逃げた、ということではないのか?しかし、このような作文は、間違った印象を読者に植え付けることを意図したもの(印象操作)と受け取られかねず、まともな意見とは言い難い。
なぜなら、第1に、高市総理大臣の手指については、応援演説中に支持者から強く引っ張られて痛みが生じたという報道もあり、また、もともとリュウマチの既往症があったことから、大事をとって手指の治療を優先したということであろう。その理由は、もっともなものと理解できる。よって、傷病の治療を優先したという選択に異議を差しはさむ余地はない。ところが、この社説を書いたとされる共同通信の某記者は、傷病の治療よりも、無理を押して日曜日の討論番組に出席することの方が優先順位が高かったと言いたいようである。私には全く理解できない感性の持主である。
第2に、高市総理大臣は、この討論番組終了後も応援演説の日程が埋まっているはずであり、仮に手の治療を後回しにした場合、症状がより悪化し、応援演説の一時中止もあり得た。その場合、各選挙区で接戦を続けている候補者にとっては、当落にかかわる非常に困った事態となる。そこで、そのような事態を招くような行動を差し控えるのが、普通の人間ではないのか。まともな政治家で、わざわざ不合理なリスクをとろうとする「お人好し」などこの世にはいない。
第3に、同社説は、NHKが行った党首討論を非常に重視しているように見えるが、この考え方自体がおかしい。なぜなら、民主主義国である日本においては、各戸に選挙公報が配布され、新聞には各候補の主張が連日掲載され、また、民法各局のテレビにおいても各政党(候補者)の掲げる公約が広く流布されている。更にネット等においては、膨大なニュース・動画が配信されているのであるから、これらを見れば、各党または各候補者の主張は一目瞭然となっているからである。何もわざわざNHKの番組を見なくても、各党・各候補者の言いたいこと、訴えたいことの大部分は分かるのである。
以上の根拠から、判例風に表現すれば、今回の高市総理大臣が討論会を欠席したことは、「責めに帰さない事由によるものと認定でき、その欠席を不当なものと非難することはできない」という結論になる。
ところが、岐阜新聞の社説は、NHKの日曜討論という番組に高市総理大臣が手の治療を優先して欠席したことを、ことさら大きく取り上げて批判する。その心意気は、まさに左翼政党の得意技である「批判のための批判」と同じである(私にはそう思える)。
さらに付け加えれば、問題となっているNHKの番組は、余りにも数の多い政党の党首が出席しているため、時間的制約もあって、各党首が言いたいことを言うだけの内容の乏しい番組となっているという点も指摘することができる。
今回、共同通信の記者が書いたとされる社説は、一言で表せば、「負け犬の遠吠え」を試みる者の代弁者と表現することができる。いわゆる「一人よがりの独善的」なものである(ただし、私見による主観的評価)。どういうことかと言えば、令和8年2月の総選挙が終わって、多数派である国民は高市総理大臣を支持したことが、民意として残った。民意として残ったとは、換言すれば、多くの国民が自民党の総裁である高市総理大臣の政策・方針を本当に実現することを望んでいるということである。ということは、信任を得た高市総理大臣としては、選挙公約に自らが掲げた政策・方針を着実に実行する責務があるということである。国民が監視しなければならない点とは、民意(多数派の意見)を踏まえた政策・方針を本当に実行してくれるか否かということである。
他方、野党の意見・主張は、多くの国民が望まぬ劣った意見である。だから負けた。時折、「熟議」という不思議な言葉が野党の党首から出ることがあるが、実は、熟議とは、いつまでたっても何も決められない「小田原評定」を是とする立場であり、有害無益な概念である。共産主義思想に毒された独裁国のトップの顔色ばかり気にして日本の自立的発展を意図的に妨害しようとする黒い願望があるのではないかとすら想像される。政策の遂行(実行)は、迅速・果敢を旨とすべきである。
思うに、与党を批判する暇があるのであれば、その前に、惨敗を食らった野党の敗因を分析することに時間を使った方がよいのではないのか。敗者は、まず真剣に自己反省をしなければならない。党内において真剣に自己反省することで将来に向けた改善策を見つけることができる。反省をしない政党は、やがて泡沫政党のレベルにまで堕落し、消えるほかないのである。
最後に、岐阜新聞は、長年にわたって地元のニュースや政治・社会の動きを丁寧に伝えてきた。まことに、岐阜という土地には不可欠の有益な報道機関と言い得る。後世まで存続して欲しい新聞社である。ところが、特に最近になってからその岐阜新聞の紙面には、多くの県民の意識と乖離した奇怪な「社説」が頻繁に登場している。これ以上の読者離れを防ぐ意味からも、何らかの改善策が必要ではなかろうか。

Copyright (c) 宮﨑直己法律事務所.All Rights Reserved.