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弁護士日記

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弁護士特約の利用法

2015年05月29日

 交通事故の被害者からご相談を受けた場合、最近は、相談者の方から「弁護士特約を使いたい。」、という話が出ることが多い。
 弁護士特約とは、被害者の方が自分で自動車保険に入る際に、特約を付けておき、万が一、自分が被害者になってしまったときに、自分が依頼した弁護士に支払うべき弁護士費用を、その保険からまかなうというものである。
 被害者にとっては、非常にありがたい保険である。ただし、弁護士特約を利用すれば、自分が依頼した弁護士の費用が必ずタダになるということではない。どういうことかと言えば、弁護士費用が高いところで、弁護士を依頼すると、場合によっては弁護士特約でまかなえる金額をオーバーしてしまう可能性があるからである。弁護士費用は、現在は、各弁護士が自由に金額を設定してよいということになっている。したがって、費用が高いところもあれば、安いところもあるのである。
 例えば、ある弁護士に事件を依頼したところ、100万円の着手金を要求されたとする。この場合、例えば、依頼者の方が、保険会社に電話し、「弁護士から着手金として、100万円請求されましたので、100万円を弁護士さんの口座に振り込んでください。」と依頼しても、保険会社としては、これには応じられないとする回答をする場合が当然にあり得る。
 つまり、「当社としては、この賠償金額の場合は、40万円が社内基準の上限額となっております。したがって、40万円までは送金できます。」という回答が出てくるのである。この場合、依頼者としては、残りの60万円はいわゆる自己負担するほかなくなる。
 また、保険会社の中には、「LAC(ラック)の基準に従ってお支払します。」という会社もある。LACとは、日本弁護士連合会のリーガルアクセスセンターの略称である。
LACの基準は、各弁護士が自分で設定している弁護士費用基準額に満たないことも多いと聞く。その場合、相談者が弁護士に対し事件の依頼をしても、その弁護士から、「LACの基準では受任はできません」と言われ、事件依頼を断られることもときどきあるようである。
 当事務所も、実は、LACの基準では受任は行っていない。当事務所は、他の法律事務所を上回る、迅速で充実した訴訟活動を行うことを一つの目標としている以上、余り低廉な金額では、事件処理に万全を期することができなくなる可能性があるためである。この点はご理解をいただきたい。
                  

日時:14:38|この記事のページ

医師と弁護士の比較(その1)

2015年05月14日

 自由業の代表として、昔からよく言われる職業は、医師と弁護士であろう。テレビドラマなどを見ても、自由業で描かれている仕事として圧倒的に多いのは医師と弁護士である。ただ、最近は、弁護士の人気が低落しているためか、テレビにおいては、医師が主人公になるドラマとか医師が解説する健康番組の方が多いように感ずる。
 ここで、医師と弁護士を比較してみたい。もちろん、比較するべき点は非常に多いので、ここでは私が注目している点のみ取り上げたい。
 第1に、費用である。医師又は弁護士から一定のサービスを受けようとする場合、金銭的な出費を要する。お金がかかるということである。しかし、お金のかかり方には、大きな違いがある。
 医師に診てもらおうとする場合、ほとんどの場合、健康保険を利用して、患者は3割だけ自己負担すれば済む。逆にいうと、残りの費用である7割は、全国民が保険料を支払うことによって負担している。患者が病院の窓口で支払う金銭的出費は、表面上は3割で済む。
 一方、弁護士の場合は、原則的に依頼者の全額自己負担である。しかも、弁護士に事件を依頼した場合に要する費用は、着手金だけで数十万円にのぼることが多い。弁護士に対し事件処理を依頼しようとする者にとっては、非常に大きな経済的負担となる。
 ただし、交通事故の場合は、被害者が任意保険に入る際に弁護士特約を付けることで、保険によって300万円まで弁護士費用が支払われることがある。ただし、保険会社によっては、いろいろと理由を付けてなるべく保険を使わせないように言ってくることがあるので、弁護士特約を付けているからと言って安心はできない。
 第2に、今後の需要予測には違いがみられる。我が国は、今後、ますます老人大国になってゆく。そのため、全体の人口に占める65歳以上の老人の比率は、ますます上がってゆく。老人は、若者よりも病気になりやすいことから、医師の人手不足が深刻になってゆくであろう。換言すれば、今後、医師になれば、当分の間は食うに困らないということである。
 一方、弁護士の場合は、既に何年も前から飽和状態に陥っている。その点は、歯科医師と同様である。要するに、需要以上に供給を増やしすぎたということである。リンゴに例えれば、リンゴが豊作になったため、リンゴの価格が暴落して、リンゴ農家としては、かえって困った状態に陥っているということに似ている。ただし、リンゴの場合は、リンゴの供給過剰状態が何年も継続するということは考えにくいので、数年経過すれば平常時の状態に戻る。
 しかし、弁護士の場合は、いったん資格をとった弁護士は、普通はその資格をそのまま生かそう考えるであろうから、供給過剰の状態は、今後、ますます激しくなると予想できる。
 弁護士の人口増加問題(司法試験合格者の増加問題)が議論されたのは、相当以前のことであったが、当時、弁護士の人口を増やすことを積極的に唱えた人々は、現在、責任を追及されるのが嫌なのか、今では皆、口を閉ざして知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる。
 ただし、クリニックや病院などを開業して大いに儲けている自由業者の医師とて、今後は、安心はできないと私は予想する。
 なぜかといえば、上記したとおり、今後ますます老人人口が増大することによって、老人医療費が爆発的に増大するになることから、国としては、老人医療費を極限まで切り詰める政策をとってくる可能性が非常に高いからである。
 すると、多額の老人医療費をあてにして、医師などの人員を増やし、また、設備投資を積極的に行った病院経営者としては、老人がどんどん来院して多忙になる割には、収益が上がらないことになる。人件費を主たる内容とする必要経費は増加しても、利益は出にくくなるという現象が近い将来現れてくるであろう。
 そうすると、私は、特に小回りのきかない中小病院の倒産が多く発生するのではないかと予想する。つまり、倒産リスクを避けようとすれば、小回りのきく個人経営のクリニックになるか、あるいは逆に、他の近隣病院を圧倒する豪華な設備とスタッフを備えた病院にならないと、今後は、経営的には成り立たなくなるのではないかと予想する。

日時:16:04|この記事のページ

蓮池薫著「拉致と決断」(新潮文庫)を読んで

2015年05月08日

 北朝鮮による拉致の問題については、新聞やテレビで一定の報道はされているが、国民的な関心は以前よりもやや低下しつつあるように思える。解決の方向に進んでいるとは思えない状況で、たまたま本屋で、上記の本を見つけたので、さっそく購入して読んだ。
 そこには、いままで窺い知れなかった拉致被害者の北朝鮮での生活が細かく書かれていた。蓮池氏によれば、拉致された後は、「招待所」というところで生活していたとのことであり、食糧は全て配給されていたため、食べることに特に困ることはなかったとのことである(68頁)。しかし、配給量には一定の制限があって、それ以上食べたくても貰えなかったという。食糧事情の悪い北朝鮮のことであるから、生きてゆくための最低限の栄養さえとることができれば、文句は言えないということのようである。
 かたや現在の日本では、多少のお金さえあれば、何でも自由に自分の好きなものを食べることができる。そのような自由は、日本に住んでいる限り当たり前のことである。しかし、日本から余り離れていないこの国では、日本の常識は、全く通用しないのである。
 農地についても記述があった。日本では、現在「耕作放棄地」の問題が出ている。昔は耕作されていた農地が、人がその地域に住まなくなったため、あるいは高齢化で人口が減少したため、誰も耕作する者がいなくなって、荒れ放題の状態になっているという問題である。しかも、耕作放棄地は、年々増加の傾向にあり、未だ歯止めがかかっていないと聞く。また、日本では、農地法という法律があるが、比較的容易に農地を転用することができるため、年々優良農地が確実に減少している。これは、極めて憂慮すべき問題と言える。
 ところが、北朝鮮では、日本と正反対だという(91頁)。どういうことかと言えば、北朝鮮では、農地の転用が非常に厳しく制限されており、農地を転用して工場、住宅、道路を造ることは困難だという。それどころか、食糧事情の厳しい北朝鮮では、非農地を農地にすることを国が奨励しているという。この点は、我が国も見習った方が良いのではないだろうか。
 北朝鮮という言葉を聞いて誰でも反射的に感じるのは、言論の自由、思想の自由といったものが一切認められていないということであろう。蓮池氏によれば、「思想抜きに北朝鮮を語ることはできない」という(141頁)。北朝鮮では、政治思想教育が不断に行われているという。幼児の時期から、教室には、北朝鮮指導部を称える模型や絵が掲げられており、その前で子供たちは、指導者たちがいかに素晴らしい存在であるかを教えられる。そのような教育は、子供たちが小学校に上がってからも継続されるという。もちろん、反米教育や反日教育も行われているとのことである。
 かたや現在の日本では、卒業式に、教員に対し、君が代を歌わせることは、個人の思想・良心の自由を侵害するものであって許されないという立場をとる人がいる。私は、そのような考え方には全く賛成できない。
 君が代は、我が国の国歌であって、その国歌を学校の重要行事において歌うことは、むしろ奨励されるべきことであると考えるからである。私としては、そのような偏向した思想の持主に対し、「北朝鮮の教育をどう評価するか?」と聞いてみたいものである。
 やや話がそれたので元に戻す。この本には、ほかにもいろいろと興味深い話が多く書かれていた。拉致問題あるいは国家の在り方に関心がある人々には、広くお薦めできる本であると思う。
                           

日時:14:45|この記事のページ

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