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弁護士日記

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小西議員の暴言は万死に値する

2023年03月30日

 立憲民主党の小西参議院議員(以下「小西議員」と言う)は、国会で開催されている憲法審査会を毎週開催することについて、「サルがやることだ。野蛮だ」などと発言し、本日、「オフレコだと思っていた」と言い訳をした上で口頭で陳謝したというニュース報道があった。以下は、仮にこれが事実とした場合の論評である。
 発言を聞いて、私は呆れた。より正確に言うと、「やはりこの男、この程度の人間だったか」と納得した。この発言は、合理的に理解する限り、憲法審査会の委員を「サル」扱いしているからである。換言すれば、憲法審査会の委員をバカにしているということである。
 小西議員がなぜこのような暴言を吐いたのか?おそらく憲法を改正すること自体が気に入らないからであろう。しかし、日本国憲法は、改正のための条文を明記しており、憲法自体が、制定後の改正を是認ないし予定していることは言うまでもないことである。
 ところが、小西議員の今回の発言から推測する限り、同議員個人にとっては、日本国憲法は指一本触れてはならない聖典であり、今後、永久に護持すべきものという位置付けになっていたようである(仮に違うと言いたいなら、記者会見して釈明をすべきである)。これは間違った考え方であり、小西議員に国会議員を継続する資格などない。世の中を舐めたような暴言を吐く議員には、「さっさと辞めろ」と強く言うほかない。
 少し前に、岸田首相の秘書官だったか、やや問題となる発言をしたことがあったが、そのときも彼は「オフレコ」という前提で真意を述べてしまい、結果、辞任に追い込まれた。今回の小西議員の発言は、この例を上回る悪質さを有している。この男、何か勘違いをしているのではないのか?自分が国会議員になったことで、何を言っても許されると思っているのではないのか?いわゆる免責特権があるのは、「議院で行った演説、討論又は表決」に限られる(憲51条)。国会外における発言には原則として免責特権がない。実に傲慢不遜な発言という以外にない。「調子に乗るな」と言いたい。人間調子に乗っていると、思わぬ落とし穴に落ちて後悔することになるものである。
 最近、国会議員の資質(レベル)が劣化していると言われるが、まさにその例に合致する。しかも、小西議員は、立憲民主党の主要メンバーの一人であり、例えば、ガーシー前議員などとは発言の重みが違う。それだけ責任が伴うということである。
 このように、問題発言をする国会議員が次々と出てくる原因は、要するに議員の身分または地位が必要以上に手厚く保護されているからであり、また、議員の定数が多すぎるからである。大相撲に例えれば、横綱が10人も20人もいる状況と似ている(ただし、現実の大相撲でこのようなことは起こりえないが)。十分な実力もない相撲取りが、一人前の顔をして横綱になっているようなものである。だから、日本では国会議員は全く尊敬されない。このように見てくると、国会議員の定数は半減すべきである。半減しても、国会の運営には全く支障がないと判断できる。
 理由は、現在の国会議員の大半(推定70%以上)は国会議員らしい模範的な活動を全くしていないところ、それでも国会が特に支障なく運営されているためである。なお、ここでいう模範的活動とは、例えば、国会の委員会で質問に立って政府の政策をただす行動、あるいは議員立法を行う活動を指す。しかし、大半の国会議員は何もしていないのである。民間企業で言えば、余剰人員ばかりということである。国会は、このような「余剰議員」を多く抱えている。
 以下は一般論であるが、特に、参議院は不要である。ムダの象徴である。この意味でも憲法改正が必要となる。百歩譲っても、定数は、各都道府県当たり2名程度で十分である。また、任期は6年では長すぎる。3年程度に短縮すべきである。3年ごとに全国一斉に選挙を行って新たな人間を参議院議員に選出するのである。回転ずし並みに、人の新陳代謝を常に図るのである。
 昔は高校の社会科の教科書でも、「参議院は良識の府」と表現された。しかし、長い年月が経過し、今やそのようなキャッチフレーズを信じる人などいないであろう。今や参議院は、その存在理由を失ったというべきである。実態は、多くの「働かない議員」が、6年間もの長きにわたって優雅な議員生活を送ることが保障される施設と化した。このような仕組みは徹底的に改める必要がある。
(追記)
 本日(3月31日)になって、小西議員から記事の内容を変更するよう政治的圧力を受けたという産経新聞の記者の発言が出た。小西議員は、自分の気に入るように記事を変更しないと、「法的措置をとる」と恫喝したと聞く。仮にこれが事実だとした場合、小西議員の行動は国会議員の立場を利用した表現の自由に対する侵害ととらえることも可能である。つい先日、国会で自民党の高市元総務大臣に対し、「安倍政権が放送法の解釈をめぐって総務省に圧力をかけた」などと声高に追及を行っていた際の論理と、今回の自分の言動は矛盾しているのではないのか?この男の言動は全く無責任の一言に尽きる。国会議員は、全国民の奉仕者であり、権力を恣意的に使う権利はない。そのことが分からぬというなら、議員を即時辞職せよ。本当にこの小西議員の表情を見ていると、何か危ういものを感じる。立憲民主党は、確か、政権交代を目指すと宣言していたと記憶する。であれば、それを実現するためにも、党として、この男に対する厳しい処分を行う義務(政治的義務)がある。
(追記その2)
 本日(4月5日)の報道によれば、野党筆頭幹事であった小西議員の後任に選任された立憲民主党の杉尾秀哉議員は、小西議員の「サル発言」について憲法審査会における謝罪を否定した。まったく話にならない態度である。「サル発言」は、あくまで公人としての発言であるから(親しい仲間うちでの飲み会におけるジョークではないのであるから)、公的な立場に立つ後任者としては、最低でも一言謝罪するのが常識というものだからである。だいたいこの杉尾議員という人物自体が国会において小西議員の尻馬に乗って、高市元総務大臣を執拗に攻撃していた人間であり、私としては、政治家としては最初から全く信頼できない人物という低い評価である(根本思想において、小西議員と同類ということである)。したがって、小西発言について余り関心がないと思える杉尾議員の上記態度と整合するのである。このような常識を弁えない国会議員は、次回選挙で落選に追い込み、二度と国会内で正式に発言できない状況を作る以外にない。自己反省能力を欠く立憲民主党の泉代表には、冗談でも「政権交代を目指す」などと言ってもらいたくない。
 余談であるが、つい数日前に、親中派の林外相が中国を訪問した。折しもアステラス製薬の日本人社員が、スパイ容疑で拘束されていた。容疑の内容はスパイ活動をしたという抽象的なものにすぎない。林外相は、拘束中の日本人を解放することもできず、すごすごと日本に帰国した。何たる無様であろうか。本当であれば、日本人の釈放を求めて語気を強めて交渉するのが外相の使命である。ところが、いつもの通り、温厚で煮え切らない態度に終始したのではなかろうか。林外相は、親中派で知られる。また、学歴は超一流といってよい。しかし、腹の中で何を考えているのかよく分からない茫漠としたマイナスの印象がある。ここでいう林氏が「親中派」であるとは、中国に政治的な影響力を及ぼし得るという良い意味ではなく、中国側から見た場合にコントロールしやすい人物(凡庸な人物)という悪い意味に捉えることになろう。自由や法の支配を否定する暗黒の独裁国家中国が暴発しないようにする唯一の有効な方法は、日本が強力な防衛力・反撃力を具備することであると確信する。その意味で、林外相は日本の指導者としては失格である。将来、総理大臣にしてはいけない。

日時:18:38|この記事のページ

対面セミナーとオンラインセミナーの比較

2023年03月29日

 最近では会議やセミナーを対面ではなく、オンライン方式で行うことも一般化してきたようである。しかし、私の持論は、学ぶ要素の大きいセミナーについては、対面方式でないと余り効果がない、というものであり、その主張は不変である。
 そこで、検討に入る前に双方の方法について長所と短所を見ておく。
 最初に、対面方式の長所は、講師の側からすると受講者の反応を正確に捉えることができるという点である。受講者の顔を見て、その場で話の内容が理解できているか否かを推測し、話の速度を速めたり、逆に遅くすることができる。あるいは内容をより分かりやすくすることも可能である。
 また、会場に講師と受講者が一堂に会しているのであるから、その場で、質問を受け付けることも可能である。余談であるが、私の経験からすれば、受講者の出す質問を聞けば、その受講者のレベルがおおよそ分かってしまう。実力のある受講者は、それなりに良い質問となっているレベルの質問をしてくる。他方、もともと実力がない受講者からは、枝葉末節的な質問やピントが外れた質問が出てくる。
 一方、対面セミナーの短所はほとんどない。強いてあげるとすれば、講師の自宅とセミナー会場が離れている場合に、到着までの時間がかかることであり、また、多額の交通費が発生することである。
 次に、オンライン方式であるが、長所と呼べるものはほとんどない。強いて言えば、セミナーの会場まで赴く時間と交通費が節約できることくらいである。
 一方、短所は多い。受講者の側に立った場合、なによりも臨場感がゼロであるから、気持ちが集中できない。集中力がない状態で、パソコン上の画面を見て、講師の話す内容を学習しようというのであるから、その効果は、対面の場合と比較して極めて少ないということができる。ニュース報道などでも、今年3月に大学を卒業した学生の、大学の授業がオンラインであったことが一番の不満だったという感想を耳にする。
 また、オンラインの形式にもよるが、オンライン方式でセミナーを受講している者は、ただ単に講義を聞くだけで、講師に対し、その場で質問をすることができないという形式の場合は最悪である。
 他方、講師の側に立っても、受講者の反応が全く分からないのであるから、自分が話している内容が相手に分かってもらえているのか否かを確かめる術がなく、非常に不安である。あたかも、人が誰もいない静まり返った深山の中で、正面にある崖に向かってひとりで呪文を唱える修行者のようなものであり、味気ないことこの上ないであろう。自然、やる気も失せてしまいがちになるのではなかろうか。
 このように、セミナーは、会場に講師と受講者が集まって、その場で生で行うのが基本であり、原則であると確信する。オンライン方式は、例外中の例外である。コロナの猛威もようやく低下した。これからのセミナーは全て対面方式に戻すべきである。
 また、オンラインセミナーには、主催者から見た場合、経営上(商売上)の重大リスクがある。どういうことかと言えば、上記のとおりオンラインセミナーには短所ばかりが目につくが、仮に同じような内容のオンラインセミナーが全国的に並列しているような場合、受講者の方からすれば、主催者の住所が、東京であろうと名古屋であろうと福岡であろうと条件は一緒ということになるという点があげられる。その結果、講師陣の顔ぶれなどから判断して自分にとって一番費用対効果の観点から好ましいと思われるオンラインセミナーが選択され、一方、二番手・三番手の内容のオンラインセミナーには誰も来ないという結果となる。つまり、勝ち組と負け組の区別がハッキリするということである(しかも、双方の格差は年々拡大すると予想される。)。
 例えば、名古屋に住む受講者が、農地法関係のセミナーをオンラインで受講しようと考えた場合、同じようなセミナーを名古屋と東京で行っている場合、昔であれば、交通費や宿泊費の関係で、やむなく名古屋で受講せざるを得なかったが、オンラインセミナーの場合、どこに住んでいようと、交通費と宿泊費は発生しないということから、より費用対効果が高いセミナーの方に参加する可能性が高くなる。仮にそれが東京で開催されるものの方であった場合、名古屋の主催者は、非常に苦しくなる。場合によっては、収益があがらないため事業から完全撤退に追い込まれることもあり得る。
 そうならないためには、上記の例の場合、名古屋においても対面方式のセミナーを開催し、地元の昔からの顧客(固定客)をがっちりとつかまえておく必要があるのである。これは経営判断(センス)に関わる事項であり、事業廃止に追い込まれる前に、スピード感のある方針転換が求められる。
 
 

日時:14:41|この記事のページ

空き地が年々増加する岐阜市中心部の惨状

2023年03月25日

 今月の22日に、全国の公示地価が公表された。新聞報道によれば、全国の地価は、コロナが終息してようやく下げ止まりの兆候が出ているとのことであった。
 しかし、記事をつぶさに読む限り、そのような楽観的な印象を持つことはできない。令和5年3月23日付けの岐阜新聞14面には、岐阜県内の公示地価が、住宅地、商業地および工業地の3つに分けて調査結果の概要が示されていた。それによれば、住宅地については、昨年と比較して上昇が55地点となっているのに対し、下落は159地点となっている。下落した地点の方が多い。
 また、ネット記事であるが、岐阜県内の公示地価が一番高かったのは、1990年(平成2年)から1993年(平成5年)にかけての時期であった。当時は、地価が高騰し、平均坪単価が120万円を超えていた(なお、1992年は坪単価167万円)。ところが、令和5年の1月1日時点では平均坪単価は26万円台である。昔、バブルの時代には「地価は絶対に下がらない」という神話があったが、今回、歴史(統計数値)を見る限り、そのような神話は、真っ赤な嘘であったことが分かる。
 このように、統計数値を見る限り、大勢としては、未だに地価下落の趨勢が継続していると考えるのが相当である。
 さて、本稿では岐阜市の住宅地に絞って現状を分析する。岐阜県内の住宅地で一番地価が高いのは言うまでもなく岐阜市内の住宅地である。上記の岐阜新聞の記事では、住宅地で価格が上位にある地点を10か所選び、地名も具体的に表示されている。一番高いのは、岐阜市金町6-17-1である。ここは平米単価が31万6000円となっている。当然の価格であろう。付近では超高層の豪華なマンションが今年春に建設されたこともあり、まさに岐阜市の中心地と言えるからである。
 2番目は、岐阜市加納本町3丁目であり、平米17万4000円となっている。ここは、JR岐阜駅から数百メートル(徒歩数分以内)の絶好の位置にあり、名古屋への通勤に極めて便利である。3番目は、岐阜市加納永井町1丁目であり、平米13万5000円となっている。ここもJR岐阜駅から500メートル以内の至近距離にあり、名古屋方面への通勤が楽である。
 岐阜市内には誰でも知っている有名な企業がほとんどなく、愛知県の名古屋に通勤する会社員が少なくない。大学や専門学校も同様である。岐阜大学で学ぶ若者は人数だけで言えば少数派であり、大半が名古屋市内にある大学(名古屋大学、南山大学、中京大学、名城大学、愛知大学等)で学ぶ。岐阜大学には、法学部・経済学部・文学部などの文系の学部が一切なく魅力に乏しい(ただし、これは個人的感想である)。
 このように、通勤・通学に便利なJRの主要駅に近いということが、土地の価格に大きく影響しているとみて間違いないであろう。他方、JR岐阜駅から1キロメートル以上離れると、通勤のための時間が余分にかかることになるため、平米11万円台以下にまで低下してくる。
 例えば、JR岐阜駅から北東方向に直線距離で8㎞以上も離れた岐阜市三田洞東3丁目は、かつて「三田洞団地」として脚光を浴びた時代もあったが、公共交通機関としてはバスしかなく不便であるため地価が下落傾向にあり、今年の公示地価は平米2万8700円となっている。
 もちろん、主要駅からの距離だけで価格が決まるわけではなく、周辺の立地環境や公共施設の充実度なども大きく影響するであろう。例えば、周辺に治安の良くない歓楽街があったり、殺風景な新興住宅街に立地する土地であったりすれば、住環境が悪いためマイナス要素となると思われる。付近に騒音、悪臭、粉塵等を出す迷惑施設が存在する場合も同様であろう。
 また、書店に並んでいる不動産関係の書籍を読めば分かることであるが、同じ住宅用の土地であっても土地の形状が悪い土地の場合は、購入しても使い勝手が悪くなるため(効率的利用ができないため)、長方形に近い土地と比べて割安になる。また、一戸建ての住宅の建設を予定する場合、最低でも1台分の駐車スペースが必要となる。できれば2台分スペースが欲しいものである。したがって、余りにも狭小な土地は、タダでも要らないということになる(想像以上に、買い手を見つけるのに難儀するという話を聞く)。
 近年感じることであるが、私が住む岐阜市中心部は、最近になってますます露天駐車場が増えてきた。原因は、老朽化した家が取り壊されて空き地になるためである。多くの地主は、空き地を露天の有料駐車場にしようと目論んでいるようであるが、現実は厳しい。たまたま近所に多くの人間が雇用される事業所、オフィス、医療機関等があり、そこが一括して借りてくれれば一番良いのであるが、そのような場所は、ごく一部の地域に限定される。
 大半の駐車場は、ほとんど誰も借りる者がおらず、閑古鳥が鳴くような寂しい光景を生じさせている。ここで、「家を新築して、そこに自分や家族が住むなり、あるいはアパートを建てて他人に貸せばよいではないか」という反論があろう。しかし、数千万円の費用をかけて家を新築しても、末永く住む者がいなければ、あるいは住む必要がなければ、全く無駄な支出となる。また、アパートを建てて儲けようとしても、入居者が埋まらないと赤字となってしまい、逆に大損をすることになる。アパートを借りるのは比較的若い年齢層が多いので、地元で若年層を増やすには、岐阜で育ち、東海地方の大学を卒業した若者を、就職時に東京に本社がある大企業や官庁に奪われないようにすることが一番の肝となる。
 ところが、岐阜市の中心部は、主要道の周辺部を除き、一歩脇道に入ると古い建物ばかりが多く並んでいる。今後、耐用年数を超えて建物老朽化が一段と深刻化し、それを処理(解決)するために空き地にした結果、誰も有効利用しない余った土地があふれる時代を迎えるのではないかと予測する。この現象は何も岐阜市に限って発生しているものとは言い難いのではなかろうか。
 それを阻止するには、東京に富も人材も全部が集中するというおかしな現状(東京一極集中)を是正する方策を考える以外にない。大都市ではない地方の中規模都市(人口20万人~60万人程度)が繁栄するような政策を立案し、かつ実行する必要がある。国の責任は非常に重いというほかない。

日時:21:53|この記事のページ

農地法研修会in大阪を終えて

2023年03月03日

 昨日(3月2日)、私は大阪市内へ出張した。大阪府農業会議が開催する農地法研修会の講師として出るためである。大阪市中央区にある会場には午後1時すぎに到着した。過去に何回も講師として来ているため、場所はよく分かっていた。
 会場に到着すると、担当者の方や事務局長の方に挨拶し、午後1時40分頃からお話を開始した。持ち時間は従来と同じ90分間である。この日は、会場に大阪府庁の農地担当者のほか、府下の地方公共団体(市役所)の農業委員会の担当者の方々がお集りであった。全部で45人ほどであったか。
 今回のテーマは、農地転用に関する法的な問題に関係するものであり、私が本年1月に出した「農地法許可事務の要点解説」(新日本法規出版社。税込み価格2420円)をテキストとして使用した。もちろん、受講生に配布するため大阪府農業会議で事前に一括購入された上で、当日、会場で各出席者に1冊ずつ無償配布されたようである。「担当者のレベルアップが重要である」という正しい認識を有する大阪府農業会議の良心的な姿勢には、ただただ頭が下がる。
 農地転用の問題に限らず、農地法の法的問題は農地法自体の理解が必要となるほか、農地法を正確に解釈するための基盤法とも言い得る民法および行政法の知識が間違いなく必要となる。したがって、農地法を完全に正しく理解することは決して容易なことではない。
 市農業委員会の担当者(地方公務員)は、基本的に一般市民や行政書士を指導する立場にあるのであるから、不断の努力によって高度の知識を涵養しておく責務があるとさえ言えよう。
 今回の農地法研修もその目的を果たすために開催されたと理解することが可能である。
 さらに法律家である弁護士の場合、原則として、農業委員会の担当者(地方公務員)を上回る法律の知識量又は理解力を具備していることが期待されるが、現実を見ると必ずしもそうなっていないことは残念である。
 例えば、ある者Aが、従来から他人Bに対しA所有農地を賃貸しているが、Bが耕作放棄状態を継続しているため、契約を解除して農地を返還して欲しいと考え、その旨をBに通知しているが、Bが話合いに応じようとしない場合、Aとしては農地法18条の知事許可が必要となることに気が付く必要がある。
 ところが、実際の民事訴訟などでは、相談者から訴訟の委任を受けた代理人弁護士がそのことを失念して、いきなり契約の解除及び農地の明渡しを求めて訴訟に至った実例がある。この例などは、完全敗訴に終わった依頼者から、「弁護過誤だ」「着手金を返せ」と言われても弁解のしようがないであろう。
 やはり、医療と同様に、依頼者が弁護士に対し、専門的知識を要する事件の解決を依頼しようとする場合は、その専門分野に精通した弁護士を選ぶ必要があろう(ただし、一般的な弁護士に依頼する場合と比べ、弁護士費用が割高になるかもしれない点はあらかじめ覚悟しておく必要がある)。
 なお、研修会の中で、受講者から、上記の耕作放棄事例のように具体的な紛争事件について法的にどうなるかの質問が出され、これに対し、弁護士が法的見解を述べることは何ら問題ない。しかし、弁護士資格のない行政書士が、同様に回答すると、仮に相当額の講師料をもらって講師を務めている場合は、「報酬を得る目的で法律事務を取り扱った」と解釈され、弁護士法72条が禁止する非弁行為に当たる可能性があるので(2年以下の懲役または300万円以下の罰金)、研修会の主催者としては十分注意すべきである。

日時:15:43|この記事のページ

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