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弁護士日記

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韓国中央日報の社説に抗議する

2013年05月24日

 昨日の報道によれば、韓国の大手新聞社である中央日報のキム・ジンとかいう論説委員は、不見識きわまる記事を執筆し、公表した。その内容とは、第二次世界大戦中の米軍による広島及び長崎に対する原爆投下を、「神による過酷な刑罰」と述べたのである。
 このキム・ジンという人物であるが、聞くところによれば、韓国内では、優れたジャーナリストの一人と評価されているらしい。
 しかし、私は、このような100パーセント間違った邪説に対し、強く抗議する。
 この記事を読んで、最初に感じたことは、韓国人の歴史認識に対するレベルは、やはりこの程度であったかということである。だいたい、キム・ジンという人物のいう「神」とは、一体、何教の神を指すのであろうか?韓国ではキリスト教徒が多いという話を聞いたことがある。そうすると、キム・ジンのいう「神」とは、キリスト教の神を指すのか?いや、そのようなはずはない。まともなキリスト教徒がそのような間違ったことを口走るはずがないからである。
 キム・ジンのいう「神」とは何を指しているのか、本人に説明してもらう必要があろう。
 さて、第二次世界大戦に話を戻す。第二次世界大戦下における米軍による原爆投下は、原爆の威力を試すための実験であったことが、今日ではほぼ明らかとなっている。
 私は、昨年の春に広島市を訪れ、実際に平和記念資料館も見学をした。館内は、多くの外国人及び日本人で混雑していた。館内に展示された数多くの資料は、原爆投下によって広島の街が完全に破壊された悲惨な様子を示していた。館内は、多くの見学者がいたが、皆、押し殺したような表情を示して、静かに資料や写真に見入っていた。
 展示資料によれば、当時、米軍は、原爆を投下するかなり以前から、アメリカ国内に広島に似せた街の模型を作成し、原爆投下による威力を正確に確かめようと周到な準備をしていたのである。
 このように、米軍による原爆投下は、我が日本国民を大量虐殺することを目的とした人道に反する犯罪であった。原爆投下時点では、国際法上、人道に対する犯罪は明文では存在していなかったが、戦後、ナチスドイツの幹部を対象としたニュルンベルク裁判において、ナチスによる行為が人道に対する犯罪と認められた。しかし、米軍による原爆投下もまた人道に対する犯罪であることは明らかである。
 では、なぜ、米軍の最高指揮官である大統領が死刑に処せられなかったのか?答えは簡単である。我が日本は戦争に負けたからであり、アメリカは戦争に勝ったからである。
 敗戦した国家は、すべての行為の正当性が否定される運命にある。他方、戦勝国は、すべての行為が正当化され、何らの咎めを受けない。これが歴史である。仮に、我が国が、太平洋戦争に勝っていたら、少なくとも敗戦に至る前に講和が成立していたら、我が国が、韓国や中国で行った行為のほとんどすべてが正当化され、不問に付されていたであろう。今日、中国や韓国は、我が国に対し、あれこれと言いがかりに近いことを常に言ってくるが、それは我が国が敗戦した結果から生じているのである。物事が、純粋に正しい、あるいは間違っているということが原因となっているのではない。
 しばしば、韓国は、我が国に対し、「正しい歴史認識を持て」と言う。しかし、これはおかしい。完全に間違っている。歴史というものは、当事者が違えば、解釈も異なることは当然だからである。一方の国から見た歴史解釈が、唯一正しいものということはないのである。
 その例として、原爆投下についてアメリカは謝罪をしていない。しかし、我が日本から見れば、原爆投下は、間違いなく人道に反する犯罪だったのである。このように、原爆投下という明白な事実ですら、国によって解釈が分かれるのである。
 韓国政府や韓国の新聞社が唱える歴史解釈は、あくまで韓国側の一方的な物の見方から生まれたものである。我が国としては、韓国のいう歴史解釈をそのまま認めることは決してあってはならないのである。
 さて、韓国中央日報の論説委員であるキム・ジンによれば、米軍による原爆投下は、「神による懲罰」という歴史解釈となる。キム・ジンという人物が、韓国内では高い評価を受けた人物であるとしたら、これは本当に大変なことである。なぜなら、そのような人物であっても、このような歪んだ認識しか持てないということが判明したからである。
 我々日本人は、韓国人の対日本認識がこの程度のものであることを、日頃から十分に意識しておく必要があろう。

日時:15:04|この記事のページ

農地法セミナーin博多を終えて

2013年05月13日

 本年も、例年どおり日本経営協会が主催する農地法セミナーが始まった。今年は、博多から始まり、大阪、名古屋、東京という順番で開催される。
トップバッターは、博多であった。今年は、5月9日(木)・10日(金)であった。会場は、JR博多駅から徒歩10分のところにある。
 今回は、九州・沖縄を中心に9名の方が参加された。他のセミナー会場の場合は、平均して20人程度の方々が参加されるが、博多は、昨年初めて開催したという事情もあって、まだ開催情報が浸透していないように思える。それが原因で、やや少ない参加者数にとどまっているのではないか。
 さて、農地法セミナーの時間は、2日間で9時間である。2日間集中的に講義を受けていただくことで、農地法の解釈のための基礎知識を学ぶことができる。今回、参加者の皆さんは、全員が熱心に受講されていたようである。
 10日(金)の午後4時にセミナーが終わると、私は、さっそく大分県の別府に向かった。特急電車は、ソニック号という。別府に向かったのは、いうまでもないことであるが、温泉に入るためである。別府には過去に数回訪れたことがある。今回は、別府駅に近い日本旅館であった。夕食は、博多で済ませていたので、その夜は、源泉かけ流しの温泉につかった。展望露天風呂であったため、お湯の色ははっきりしなかったが、透明の湯であった。
 体に触るとツルツルした感じがする。なかなか良い湯であった。
 翌11日(土)は、宇佐市に行き、宇佐神宮を参拝した。宇佐駅からバスがあるが、非常に便が悪く、数時間に1本しかなかった。それで、タクシーで宇佐神宮に行った。宇佐神宮は、25年も前に一回訪れたことがある。今回は、25年ぶりである。境内は広大であり、参拝者の数も少なく、厳かな気配がした。
 宇佐神宮参拝を終えてから、再び電車で小倉に向かった。小倉では、松本清張記念館を見た。松本清張は、あらためて説明するまでもなく、戦後を代表する巨匠の一人といってよい。初めて知ったことであるが、作家としてデビューしたのは、42歳の時だったという。そこから、物凄いエネルギーでもって数多くの著作を出した。40歳台から50歳台までは、年々、新しい作品を数多く出している。しかし、65歳以降は、そのエネルギーが底を尽いたように、作品の数が激減している。今回、資料館を訪問したことで、松本清張が一番活躍したのは、43歳頃から63歳頃までの約20年間であったことが分かった。
 来年も、博多近辺の観光地巡りができることを楽しみにしている。

日時:15:02|この記事のページ

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