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弁護士日記

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損保と闘う(11)

2014年02月24日

 当事務所は、交通事故被害者の方々のみの相談・依頼を受けて業務を行っている。
 事件を処理するに当たっては、当然、依頼者の方々の意向や意思をよく確認してから、事務処理を進めることにしている。
 また、依頼者の方々から出される希望については、証拠に照らして裁判所に認めてもらえるかどうかという点をよく検討した上で、回答を行うようにしている。証拠を検討した結果、賠償金の支払いを求めて裁判所に請求しても、認められることが困難と思われるときは、率直にその旨を説明して依頼者のご理解を得るようにしている。
 弁護士と依頼者とは、委任契約の関係に立つ。依頼者が委任者であり、弁護士が受任者という立場に立つ。委任契約においては、弁護士は、善良なる管理者の注意義務をもって委任を受けた事務を処理する義務を負う。善良なる管理者の注意義務とは、法律を学んでいない一般市民にとっては分かりにくい概念かもしれないが、簡単にいえば、普通の平均的弁護士であれば、誰でも分かる事柄、あるいは正しく判断できる事柄などについて、仮に間違った判断を下して事務を不適切に処理してしまった結果、依頼者に損害が生じた場合、弁護士は依頼者に対し賠償責任を負担する、ということである(医師の場合も同様にいえる。)。
 このように、受任者たる弁護士は、委任者たる依頼者に対して、依頼者の利益が最大限守られるようにいろいろと工夫をして事務処理を進める必要があるのである。
 ところが、かねてより疑問な点がある。それは、交通事故裁判において、加害者の弁護士は、一体誰の利益を一番尊重して事務処理をしているのか?という点である。
弁護士に対し、委任状を作成して交付するのは、加害者であるから、加害者の利益を一番重視するのは、法的には当然のことだという結論になる。ところが、交通事故訴訟において、実際に賠償金を負担して被害者に支払うのは、加害者が契約していた損保会社である。加害者は自腹で1円たりとも支払う必要はないのである。
 そうすると、事件を受任している弁護士も、実は、加害者自身ではなく損保会社の利益を相当に斟酌して活動しているのではないか、という疑問が生じてくる。仮に、加害者自身の利益と損保会社の利益が相反した場合、加害者の弁護士は、いずれを優先させるのであろうか?
 一例として、加害者は自分の過失を100パーセント認めて損害賠償金を被害者に支払って、事件を早期に解決して欲しいと考えているとする。ところが、損保会社は、被害者にも過失相殺事由が認められる可能性があるから、100パーセントの過失を認めることを拒否しているとする。
 この場合、加害者側の弁護士は、損害賠償金を保険から支出する際には、約款上、損保会社の承認を要するとされているという理由で、損保会社の判断に従うことが多いように見受けられる。法的にはそのような態度は違法とまではいえないため、このような現実が大手を振ってまかり通っているのである。
 私も実際に損保会社が選んだ代理人と闘ってみて、彼らの顔は、加害者本人ではなく、間違いなく損保会社の方を向いているという実感を持っている。法律上の形式的委任関係と、実質的委任関係の、現実的ギャップがここに表れているといえよう。

日時:16:16|この記事のページ

竹村公太郎著「日本史の謎は『地形』で解ける(文明・文化篇)」(PHP文庫)を読んで

2014年02月17日

 本屋でたまたま見つけた本が、上記の本である。著者の竹村公太郎氏は、東北大学工学部大学院を卒業後、旧建設省に入り、河川局長などを務めた元キャリア官僚である。
 日本史関係の本というと、普通は、文学部などの文化系の学部を出た人が書くものと相場が決まっている。ところが、著者である竹村氏は工学部を出て、しかも建設省というおよそ文化とは縁遠い役所で、技術官僚としての人生を送った方である。変わった人がいるものだ、というくらいの軽い気持ちで本を買い、家で読んでみた。
 ところが、読んで驚いた。着眼点が素晴らしい。「こういう考え方もあるのか」と新鮮な感覚を覚えた。文化系の学者などでは到底思いつかない専門技術知識を基礎に自分の説を明快に書いている。
 例えば、徳川家康が開いた幕府は、江戸を本拠地と定め、全国の大名に命じて大規模な土木工事を実施した。江戸のインフラは、全国の大名が財源を負担して整備されたのである。この点について、竹村氏は、「地方大名たちの財力とは、領民から集めた年貢であった」、「つまり、江戸の都市のインフラは、全国の地方の人々の年貢で整備されていったのだ」とその本質を鋭く見抜く。
 また、参勤交代の意味についても、江戸で生活する大名やその家臣たちは、「純粋な消費者であった。江戸には生産する土地もなく、働いてくれる領民もいない。江戸ではただただ消費を行うのみであった」と指摘し、その経費を捻出するために、諸国の大名は、自分の藩でとれた農作物、海産物、特産品などを江戸や京都・大阪などに運びそれをお金に換えて、江戸での生活費に充てたというのである。
 そうすると、江戸には全国から物資や金銀が集まってくることになる。経済的に繁栄するようになれば、文化も花開くことになる。ここで、著者は、江戸文化を支えたのは、結局のところ、地方の人々であったと喝破する。さらに、著者は、江戸が一大消費地であった構図は、現代の東京にも当てはまるという。
 その一例として、学生をあげる。確かに、地方から上京して東京で学ぶ学生は、膨大な数に上るが、学生は、正真正銘、消費者である。仕送りという形で、地方からお金が東京に集まって、それが東京で消費されるのである。
 また、東京のインフラは、過去に最優先で整備されたが、そのお金は、国が全国民から集めた税金が元手になっている。つまり、地方の人々から集めた財源を東京に優先的に投資したのである。そのあり方について、著者は、「家康が江戸に入って以降の400年間、東京のインフラは地方の人々によって休むことなく整備され続けてきた。この東京が、安全で快適であるのは当たり前だ」、「今も東京には黙っていても全国から現金が送り込まれ、消費する人々が地方から集まってくる。東京が繁栄するのは当たり前だ」と説く。
 ところが、東京の人々は、東京の安全と快適さが、地方の人々の支えによって成り立っていることを知らないと、その問題点をえぐる。その理由として、著者は、東京への一極集中の結果、その事実を伝えるメディアが存在しないことを取り上げる。
 著者は、日本を代表するオピニオンリーダーたちは、「400年間東京の安全と快適さが、地方に支えられているとは露知らない。東京が消費する食糧とエネルギーが、地方から注入されていることに気がつかない」とその問題点を指摘する。このように東京人の無知と傲慢さを諌める。確かに、テレビに日々登場する言論人又は評論家たちの大半は東京在住の人々であり、彼らの口から、このような話を聞くことはほとんどない。
 その上で、著者は、地方の問題は東京の問題であり、また、地方の衰退は東京の衰退につながるという的確な分析を行う。私も全くそのとおりだと感じた。
 また、著者である竹村氏は、今後の我が国のエネルギー政策についても慧眼を示している。現在あるダムのかさ上げ工事を行い、水力発電をもっと活用すべきであると述べる。
 そして、水力発電の本質とは、太陽エネルギーであると説く。つまり、無限のエネルギーである太陽光によって海の水が温められて水蒸気となって空に蒸発し、それが集まって雨となり、その雨が日本列島に降り注ぎ、集まった雨水が川となって流れる。水力発電とは、水が流れる力を電気エネルギーに変換するものである。著者の「それは無限に続く太陽エネルギーである」という指摘は、ある意味において当たり前の話ではあるが、本質を見抜いた見解であり、私としても納得・賛成するほかない。
 私としては、本書をより多くの人々に読んでいただきたいものである。
                             

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購読新聞を朝日から産経に変更した

2014年02月10日

 私は、学生時代からずっと朝日新聞を購読してきた。
 しかし、今年の1月1日から産経新聞に変更した。変更した理由は、以前から朝日新聞の報道姿勢に大きな疑問を感じていたためである。朝日新聞の社説を読むと、とにかく時の政府の行おうとすることに批判を加えることが多い。時の政府の姿勢に対し支持を表明するような記事はほとんどない。何でもケチを付けたがる。
 また、これが一番の問題であるが、外交関係について、「なぜそこまでして?」というくらい、近隣諸国である中国や韓国に配慮を示し、これらの国の利益を擁護しようとする。少なくとも、私にはそう読める。何か、中国や韓国の政府が新聞社を支配しているがごとき印象を受ける。しかし、まじめな話、中国や韓国が朝日新聞社を支配しているという事実は全くないと思う。そうではなく、社内において日本人である記者が、自発的にそのようなこと、つまり、日本国民から元気や活力を奪おうとする傾向のある言論を展開することに違和感を覚えなくなっている、ということではないだろうか。
 では、一体なぜそのようなことになっているのであろうか?言論の自由といっても、それ自体に絶対的な目的があるわけではない。我が国ないし我が国の国民が、より良い環境、より良い日々、より良い文化などを享受するために、言論の自由が認められているのではないか、と考える。
 したがって、上記の目的(公共の福祉)に反する言論の自由なるものは、そもそも認め難いのである。分かり易い例を挙げると、第二次大戦でナチスドイツのやったことを無批判に賞賛するような言論は、いくら言論の自由があるといっても、認めるわけにはいかないのである。
 要するに、新聞とは、何も時の政府の政策を批判することだけに専念するのではなく、時の政府が、良い政策を実行しようとする方向性を示している場合は、批判のための批判を行うのではなく、より良いものにするための提言をすることも必要ではないか。
 この点、産経新聞は是是非非主義をとっているようであり、また、我が国の国益を第一に考えるという姿勢が明確に打ち出されており、非常に共感できる記事が多い。
 私は日本人であるから、我が国が、今後も世界の先進国の一員としてますます発展することを願っている。反面、日々デタラメを言い立てて我が国の足を引っ張ることに国家国民を挙げてまい進しようとしている国、あるいは軍事力に物を言わせて我が国を含む他国の領海・領土を侵略しようとする策謀を日々実行している一党独裁国家に対しては、対決する姿勢を明確に打ち出す必要がある。
 左翼系の文化人、学者、政治家などのように、世界平和を唱えることもよいが、ほどほどにしておくべきである。我が国以外の外国が、我が国の利益を図ってその国の政治を行ってくれるようなことは、100パーセントあり得ないからである。どの国も、少しでも他国に不利益を押し付けて自国の利益を図ろうとするのが当たり前の姿だからである。
                                 

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