

死刑は、刑罰の一種である。その歴史は古く、おそらく人間社会が成立した時代からあったのではないか?ただし、歴史的な分析は、その道の専門家に見解に委ねる。
刑罰とは、一言で表せば、共同体の秩序(ルール)を破った者に科される制裁ないしペナルティの一種であり、これを科せられる者には苦痛が生じる(苦痛のない制裁はあり得ない)。制裁を科する必要があるのは、共同体の秩序と平和を維持するためであり、面白半分で科するものではない。
国家・国民にとっては、日々、定められたルールに則り、各自が自由に活動することによって社会が維持され、発展することができる。ところが、そのようなルールを破って不当に利益を得ようとし、または目的を達成しようする者が出てくる。その最たるものが、殺人行為であり、強盗殺人行為である。犯罪人が出現することを未然に防止する有効な手段が刑罰であり、死刑は、その威嚇力から、一番優れたものといい得る。
さて、死刑廃止論者の法的根拠とは、憲法36条であり、同条は公務員による残虐な刑罰を禁止している。しかし、もともと刑罰の一種類として死刑というものが存在し、その歴史は長いことを考えると、死刑が直ちにここでいう残虐な刑罰に該当すると解釈することには無理がある。憲法は、「死刑を禁止する」とは言っていないのである。
そうすると、憲法が禁止する死刑は、例えば、磔(はりつけ)、火あぶり、ギロチンのように、罪人に対し、ことさら多大の苦痛または恐怖を与えるものを指すと解釈することが正当である。したがって、絞首刑自体は憲法が禁止するものではない。
最近では、国際法がこれを禁止しているという点を指摘する者もいるが、憲法は、国際法に優越するものであり(憲法優位説)、日本国憲法が、我が国の絞首刑を禁止していない以上、このような理屈は通用しない。日本には日本独自の文化があり、その根本的精神を曲げてまで西洋人にこびへつらう必要などないのである。
思うに、死刑廃止を唱える者たちから見て、死刑制度廃止を実現することが、どのようなメリットを社会にもたらすのであろうか?よく考えてみると、メリットは何もない。単に、凶悪犯罪人がこの世で生きながらえることが許されるということだけである。
しかし、このような事態は、凶悪犯罪人によって生命を奪われた被害者(遺族)の心情または立場を考えた場合、きわめて一方的で不合理な結論というべきであって、とうてい支持できない。
しばしば、刑事裁判においては、被告人が反省しているか否かが問われることがあるが、殺された被害者はもはやこの世にいないのである。仮に、法廷で100回謝ってもらっても、ほとんど意味はない。また、被告人の不幸な生い立ちも問題となることもあるが、そのような事情は、被害者遺族側から見れば、「関係ない」ということである。結論として、凶悪殺人犯は、自らの命をもって贖罪する以外にないのである。
さらに、死刑が無くなれば、どのような凶悪犯罪人であっても、無期懲役刑を受けることになって、国家としては、その者を終身にわたって管理するための予算が必要となる。しかし、これは予算の無駄使いである。そのような無駄な金があるのであれば、より国民にとってためになる用途に充てるべきである。死刑廃止論は、間違った無用の議論である。
本日付け(2024年2月14日付け)の地元新聞のコラム(分水嶺)を読んだ。そこに書かれていたのは、フランスの元法相を引き合いに出して、いろいろと文章を連ね、文章の最後に「死刑存廃の議論が停滞するさまを、海の向こうからどう見ているのか」という結論であった。奥歯に物が挟まったようなキレのない文章である。大学入試の現代文の問題に置き換えれば、「(問)筆者は、何を言いたいのか、100字以内で、理由とともに結論を書きなさい。」といった出題に近い。
私の解答は、「このコラムを書いている人物は、死刑制度に反対の立場をとっている。その理由は、この元法相が92年に来日した際の目的および発言内容から明らかである」というものである。
死刑制度は、前にも述べたとおり、既に日本の司法機関である最高裁判所が合憲という判決を下しており、また、時々、日本各地の地裁でも死刑判決が現に言い渡されているのであるから、実務的な運用としても完全に定着している。また、日本人の概ね80%以上は死刑制度を支持している。さらに、立法機関である国会においても、ここ数十年余り、死刑制度の是非について議論になったことすらない。行政機関である内閣においても、死刑制度について何か見直しをするという話が出たことは、私が知る限りない。
このように、日本社会において完全に定着している法制度(法文化)について、分水嶺を書いている人物は少なからぬ不満を持っているようである(本日付けのコラムの内容を合理的に解読する限り、そのように解するほかない)。一体、この人物は、なぜそのような意見を新聞の1面に掲載しようと考えるのか?
本気で、議論を巻き起こそうとするのであれば、一方的な立場の意見を掲載するのではなく、賛否両論の立場から、しかるべき専門家を4名程度招いて(賛成派2名+反対派2名の計4名である)、紙上で徹底討論させればよい。いずれの立場がより説得力を持つかは、新聞の購読者の判定に委ねるのである。私見は、あらためて述べるまでもない。死刑制度は、必要不可欠の有用な制度であり、堅持する必要があるという立場である。
それにしても、上記コラムの中で気になった文章がある。それは、フランスの元法相が述べたという「『民主主義は世論に追従することではない』と政治家の責任を説いたという」箇所である。
しかし、この意見には異論がある。第1、ここでいう民主主義の定義が不明である。コラムを書いている人物は、一体「民主主義」の定義をどう理解しているのか。他人の発言を肯定的に引用する際は、その前提として、自分自身において、その意味を理解ないし説明できることが必要となる。第2に、仮に世論つまり民意に逆らってでも、国会は自分が正しいと考える法案を自由に決議できるいうことになったら、場合によっては、国民生活に大混乱をもたらすことにもなりかねない。しかし、そのような事態は、果たして民主主義または国民主権に適合するといえるのか、疑問がある。
いずれにしても、自分の意見を公開するに当たって他人の発言内容または他人が書いた本の内容を引用する場合は、その内容を自分で理解した上で公開する必要があろう。この点は、お互いに十分留意したいものである。

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