私は、新聞を二つとっている。準大手のS新聞と、地元のG新聞である。
これら二つの新聞は、根本的に違う。どこが違うかといえば、前者はわが国の利益を重視した物の考え方を基本とする。これに対し、後者はその社説(ただし、その大半は別のK社の記者が書いたものをそのまま掲載していると、G新聞から聞いている。)を見ればよく分かるが、私の目からみた限り、左寄りの古い思想をそのまま受け継いだ物の考え方を基調とする。
後者のG新聞の本日8月8日のコラムを読んで、非常な違和感を感じた。
そのコラムは、某歌手の曲を引用し、「自由」が大事であると述べる。自由が大切なものであることは、何も北朝鮮や中国のことを連想しなくとも、よく分かる。特に異論はない。
次に、そのコラムは、あいちトリエンナーレに話題を移し、少女像の展示に対し、抗議が殺到した、また、ガソリン放火をほのめかす脅迫があって、逮捕者も出たと紹介する。そして、「力で異論を排除する姿勢には戦慄が走る」と結ぶ。
しかし、この箇所には一部異論がある。
なぜなら、一体、このコラムのいう「異論を排除する姿勢」が、何を具体的に指すのかが不明だからである。まず、ガソリン放火が許されないことは、党派を超えて当たり前のことである。犯罪行為を是認する者など、一部の反社団体を除いてあり得ない。
問題は、一般市民から抗議が殺到したことである。仮に、これをも指すのであれば、明らかにおかしい。
なぜなら、例えば、民主主義の原則に従い国会の多数決を経て適法に成立した法律についても、一部の反対勢力による国会外のデモ行進が、権利として認められているからである。この場合、デモ参加者の意見は、法案の廃止である。G新聞は、このようなデモ行進についてはどう評価するのであろうか?立場をはっきりさせるべきである。
このように、一般市民からの抗議は、あっても当然であり、まさに、このコラムを書いた人物のいう「自由」に属する。一般市民からの抗議を、「力で異論を排除する姿勢」ととらえることは間違いである。
続いて、このコラムは、河村市長の姿勢を批判する。河村市長が、「公的施設、公金を使うなら国益に反する表現は認められない」と批判したことに対し、このコラムは、「ただ多様な表現があってこその芸術だ。口出しする『お上』こそ不自由展のキャンバスにふさわしい」と述べる。
しかしこの点も、きわめておかしい。コラムのいう「少女像」は、私がこれまでも幾度となく述べているとおり、その実体は、日本を貶めるための道具にすぎないからである。しかも、事実を歪曲し、悪意をもって作られたものだからである。このような物は、とうてい芸術作品ではなく、政治的プロパガンダの発信装置にすぎないのである。あえて推測すれば、芸術祭の展示機会を利用した、日本国内における反日宣伝活動の実行というべきである。
そのような背景が分かっていれば、このような醜悪な像を、わが国の公的施設に設置することがふさわしくないことは、中学生にも分かることである。少なくとも、多くの公務員や公的施設を使って実施すべきものではないのである。
このような醜悪な像を設置したいと願っている団体は、その思想に共鳴する私的な理解者の協力を得て、その施設(例えば、G新聞本社ロビー)を借用して、そこで展示することも可能なのであるから、何も自由が制限されているわけではない。
このG新聞のコラムは、最後に、「いつまでも自由を連呼できる社会であってほしい」と述べる。一体、何かいいたのか不明である。
自由は大切なものであることは、コラムに言われなくとも、普通の日本人であれば分かっている。しかし、自由とは、無制限の自由つまり、やりたい放題を許すということではない。自ずと限界があることは誰でも知っている。今回の企画は、そもそも最初から開催すべきではなかったのである。
Copyright (c) 宮﨑直己法律事務所.All Rights Reserved.